―129―完敗と、翌年5月に表面化した両勢力の一時的断交まで続く事となる。しかし一方で、大戦とそれに続く時期は、未来派の思想に賛同した幾人もの造形芸術家が運動から離れていった時期でもあった。グループの最も有力な画家・彫刻家であったウンベルト・ボッチョーニや建築家アントニオ・サンテリアが、1916年8月から10月にかけて相次ぎ戦没していった。また、カルロ・カッラ、ジーノ・セヴェリーニ、マリオ・シローニといった、初期の未来派を支えた画家たちは、未来派の表現方法に限界を覚え、新古典主義や形而上絵画のグループへと移って行った。「未来派党宣言」には政治的プログラムと同時に、未来派的な政党と芸術運動の分離および後者の原理の優越が謳われていたが、少なくとも造形芸術運動としての未来派の活動はこの時期、急速に新しい人材を吸収する必要があった。2)未来派タートの誕生1896年、ボローニャに生まれたグリエルモ・サンソーニは、第一次世界大戦が勃発した時にはまだ18歳であった。翌年のイタリア参戦に伴い、サンソーニは1918年まで義勇兵として従軍するが、それがボッチョーニやルイージ・ルッソロなど、初期未来派のメンバーと交流するきっかけとなった。1919年、故郷に帰還した彼は、仲間を語らいボローニャの未来派グループを自称し、マリネッティやカルリと通信を取り合いつつ、エミーリア・ロマーニャ地方の芸術家としての活動を開始する事になった。ところが翌年の9月、サンソーニは仲間たちの前から急に姿を消してしまい、それから数週間後「彼が亡くなった」という知らせが仲間たちに届く。しかし実際には、サンソーニは生きていた。第二次世界大戦期に彼が記した自伝的著書『タートに語られたタート:未来派の20年』(1941年)には、その真相が以下のように語られている。1920年9月16日、故人の家に花束と花輪が届いた。11時頃には、多くの友人もやって来た。/そして霊柩車が到着した。/驚き、憤慨、抗議、諦めなどで場は活気づいた。この時、友人たちが目にしたのは故人の姿ではなく、当のタート自身が、これまでになく元気そうに彼らを迎えた〔中略〕/多くの人々が立腹して立ち去ったものの、一方で未来派に類する多くの人々は納得した。この時代のダイナミックで独立不羈な(Menefreghista)生へと献身する事をついに決定し、公的な形で未来派の画家タートを生み出すため、とうとう“グリエルモ・サンソーニ”という自身の亡骸を埋葬しようと彼らの友が望んだのは、理にかなった事であると。(注5)つまり、彼の失踪は未来派の新しい人間として“再生”するための大胆なパフォー
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