鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―132―未来派の俊英として毎年のように作品を出品して行った。特に当時のビエンナーレの公式カタログにおいて、千点を超える出展作品の多くにその図像が付されていない中で、彼の作品の写真が何回も掲載されているという事実は、同時代におけるこの芸術家への注目度の高さを物語るものであろう。4)「ファシスト突撃隊の画家」ところで、1924年にタートがバッラとともに書き、二人の名前を合わせた「タトバル(TATBAL)」という筆名で発表された小文には、芸術的に新しい存在である事を自負する未来派に対し、まだ政権獲得から2年の新しい政体であるファシズム政権が軌を一にする事への筆者たちの期待が示されている。ファシスト政府=未来派芸術/何故か?/なぜならファシズムは未来派/=青年+新時代/芸術の内にある新政府は若者とともにあり/また古き政体も征服する!!!/何故か?/何故なら破壊者が来たらなかったからだ!!!/我々はイタリアを未来派ファシスト理想化〔Futurfascisteidealizzare〕したい/(注10)この年マリネッティは、『未来派とファシズム』において、1920年以降距離を置いてきた未来派とファシズムのつながりを再び強調し、また現実に政権を奪取したファシズム運動の先駆者として自らを位置付けている。しかし、ファシズム政権は1929年に開設したイタリア・アカデミーへマリネッティを入会させたものの、未来派を独占的な「イタリアの芸術」として公的な芸術路線として採用する事はなかった。ムッソリーニの指導という大前提を侵さない限り、一定の「芸術の自由」が確保されるという「ヘゲモニー的多元性」(注11)の政治方針の中で、未来派は形而上絵画やノヴェチェント派といった他のモダニズム潮流や、より保守的でアカデミックな芸術家たちと、公的な芸術祭やコンペを通じた「イタリアの芸術」としての地位をめぐる競争を展開した。タートがトレントの「ドーポラヴォーロ宮殿」のステンドグラスのために描いた下絵〔図9〕なども、その一環で生まれた。「航空絵画」の提唱も、未来派内での芸術的創意の発展と同時に、国民ファシスト党幹部が飛行機の近代的イメージに着目し、それを自らの自己表象に取り入れていた事実と無縁ではなかった(注12)。さらに、ファシズム政権の本格的な対外戦争となったエチオピア戦争(1935−1936年)以降、飛行機や飛行行為に体現される近代的な力の称揚といった、タートの「航空絵画」に際立っていた要素は、ファシズム政権の軍事力の雄大さと重ね合わせられ、「ファシストの戦争」の露骨な賛美へと向かい、芸術家も芸術運動の指導者も、この事を決して否定する事はなかった。1938年の《湖

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