鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―133―の上を行くS−81号機》〔図10〕の主題となっている飛行機は、エチオピア戦争に続いて行われたスペイン内戦への介入において、爆撃・輸送に使われた最新鋭のものである(注13)。1937年、ローマで行われた空軍省主催の「未来派の航空絵画展」は半ばタートの個展ともいうべき展覧会であり、出展総数66点中37点の作品が彼のものであった。《コロッセオ上空の旋回飛行(旋回)》や《プロペラの悪戯》なども出展された展覧会のカタログに、マリネッティは彼の紹介文を書いている。そこでは、航空絵画の諸傾向の説明の際、1930年のヴェネツィア・ビエンナーレのコンペで賞を獲得したこの画家の作品が、国民ファシスト党の高級幹部であり当時の空軍大臣であったイタロ・バルボに買い取られた事実への言及がなされている。また、「ファシスト突撃隊の画家」と題した一文は、タートの作風および彼の第一次世界大戦従軍の事実を、ファシズムの戦闘的性質と完全に重ね合わせている。画家タート、ボローニャの黒シャツ隊員にして、エミーリア・ファシストの美しき戦いの渦に飛び込んだ彼が、見事な霊感の一撃をもって、攻撃の進軍と勝利の行列の中にあるファシスト行動隊〔squadrismo〕を一連の絵画連作へ造形的に描きとめた事は、一つの傑作を用意する事となった。すなわち、彼から統帥に献呈されたローマ進軍の巨大なパネル画であり、統帥から非常に喜ばれたそれである(注14)。このようなマリネッティの「ファシスト突撃隊の画家」という賛辞を自ら積極的に証明するかのように、イタリアが第二次世界大戦に途中参戦する1940年6月以降、タートは《ノルウェーの空における空中戦》〔図11〕のような「戦争の航空絵画家」としての作品を残した。戦争をきっかけに未来派の少なからぬメンバーが運動から距離を置くようになる中、それでも彼は「戦争の航空絵画」を謳った未来派のグループ展や、1942年の第23回ヴェネツィア・ビエンナーレや、1943年の第4回ローマ・トリエンナーレにも作品を出品し続けた。特に、急速に戦局が悪化する中で開かれた第23回ビエンナーレにおいては、世界大戦の同盟国と中立国のパヴィリオンとともに、イタリアのパヴィリオンとして三軍の将校が責任者がとなった「王国陸軍館」「王国海軍館」「王国空軍館」が特別に開設されており、この最後のものには、1930年代から未来派に参画したレナート・ディ=ボッソ(1905−1982)やアルフレード・アンブロージ(1901−1945)らの作品が、未来派パヴィリオンとは別枠で展示されていた。タートはこのような彼らの「戦争の航空絵画」の先駆例となっていたのである。第二次世界大戦後のタートは、数年の活動休止期を経て、1970年代の晩年に至るま

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