鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―5―い。その概略は、初唐から晩唐期にかけての主要なものを挙げれば次の通りである。山西省の壁画屏風は一種独特の作風をそなえている。太原市西南郊外の新董w村にある趙澄の墓(注17)は、武則天の万歳登封元年(695)の作で、山の前に、文武、侍従および樹下に静坐する老人などを画いている。人物は墨線で隈取り、中を紅、紫、黄で着色し、画法は厳しいとはいい難いが、特別な趣がある。またその作風は1958年に発掘された金勝村の六号墓(注18)の壁画にきわめて近く、用筆はやわらかく動きがあり、一種の写意的風趣がある。人や樹を画く場合もこの調子で画き、近年発見された唐墓の壁画の中で独特の風格をそなえている。その他、金勝村の四号墓、金勝村の五号墓(注19)、金勝村の三三七号墓(注20)、金勝村付近唐墓(注21)、開元18年(730)温神智墓(注22)などの山西太原地方から出土した唐壁画墓には、その内容が大体同様である樹下老人図屏風が墓室の正面と両側壁の前端に描かれていて、墓室北半部の棺床の東・北・西三面に囲まれている。八曲の場合が多く、六曲のものは少数である。盛唐時期の開元9年(721)薛C墓(注23)と温神智墓を除いて、発掘者は万歳登封元年(696)趙澄墓の構造及び壁画の風格によって、他の数基の壁画墓の年代は初唐−武周時期と推定している。1987年発掘された武周時期の金勝村の七号墓には、墓室西壁に三扇の樹下老人図が描かれている〔図6〕。その図様は、梁元珍墓と新彊ウイグル自治区トルファン・アスターナ第三八号唐墓主室奥壁壁画の構図様式によく似ている。さらに、寧夏固原南郊にある聖暦2年(699)梁元珍墓の十曲の樹下老人図屏風(注24)と、新彊ウイグル自治区トルファン・アスターナ第三八号唐墓の六曲の樹下老人図屏風の、衝撃的な発掘が行われた(注25)。梁元珍墓に描かれた樹下老人図十扇屏風は西・北壁に五扇ずつが描かれて、各扇には一人の方形・蓮花冠褒衣人物立像と一株の樹木という構図である。1965年に発掘した新彊においても、トルファン・アスターナ古墳群で第三期(盛唐〜中唐)の第三八号唐墓後室の奥壁に六扇屏風図が発見された。各扇は紫色の屏框を分け、六扇が並べられている画面内容は、すべて樹下に立つか或いは座っている状態の人物を配し、画面は藤羅を纏った大樹を背景として立像或いは坐像の人物が中心になり、侍者はそれぞれ包、皿・碁盤、書巻を持ち中心人物(主人)の左右に立っている(注26)。この樹下人物図六扇屏風については、生前の墓主の姿とする説と文人逸士らの表象とする説があるが、先行例や各扇における容貌の差異などからして、前者よりも後者の方が妥当であろう(注27)。これらの樹下老人図屏風は、陝西省では景龍2年(708)韋浩墓後室西壁に描かれた樹下人物図とも非常に近いもので、広い地域でほぼ同時期に流行していたと考えられよう。

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