鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―140―かかわらず、その変遷の中にあって絃楽器を吊る伝統は受け継がれてきたため、絃楽器が図像として残ったと考えられる。時代がくだるにつれ、口碑のみが伝えられた可能性も否定はできないが、荘厳は建築外部のよく目立つところに設置され、実際に目で確認できるものであったことから、少なくとも江戸時代初期までは存続していたと推定される。また、これらの図像は、霊験や伝承を示したものではない。なぜならば、今回とりあげる史料のひとつである高野山水屏風は、境内の景観の忠実な描写を主眼としたと考えられており(注1)、説話的な内容は描かれないからである。二、大塔の外観ここでは、大塔の外観について把握しておく。大塔の創建および竣工の年代は明らかでないが、『高野春秋編年輯録』によれば、弘仁10年(819)に心柱を壇上に運搬したのち、遅くとも貞観3年(861)には完成をみている(注2)。現在のものは第六代目の塔である。上述の五点の図像を見るに、いずれの大塔も下層は方形の五間四面で、亀腹をもち、上層は円形である。このような塔を特に大塔形式とよぶが、高野山の大塔はその最早期の例にあたる。基壇には回廊をめぐらす。下層四方は中央三間を板唐戸、左右端の二間を連子窓につくる。円形上層の柱間は各作品間で一定しない。屋根については、山水屏風は桧皮葺に見えるが、ほかは瓦葺である。いずれも相輪の宝珠から、降棟の上にたつ四隅の宝珠まで金鎖が張られ、小型の風鐸が下がる。行状図画巻第四には金鎖等が見えないが、描き落としたものか。山水屏風のみ、上下層の屋根の間に支柱が取り付けられている。これは上層の屋根の重みによる垂下を防ぐためのもので、記録はない。だが、山水屏風の成立を1280年代とする説にもとづくと(注3)、三代塔の第二度の修造の際に設置されたものと考えられる。上下層の屋根の軒下に風鐸を吊るのはいずれも同じであるが、絃楽器の荘厳については、行状図画をのぞき、上層のみに吊られている。三、建築を荘厳する絃楽器建築に吊られた絃楽器は、古くは箜篌と呼ばれていたことが奈良時代の文献史料より知られる。箜篌はもともと、大陸由来の絃楽器で、日本にはハープ形の竪箜篌と、コト形の臥箜篌(がくご)が伝わったと考えられている。建築に吊られた箜篌は従来

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