鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―141―ハープ形のものとされてきたが、そうではなく、コト形のものであった(注4)。建築を荘厳する箜篌は、8世紀の正倉院文書にすでに制作記録が残る(注5)。そこから想定される設置方法は、軒と箜篌本体にそれぞれ四カ所ずつ、鍍金をほどこした金具をとりつけ、漆を塗った緒でつなげるといったものである。平安時代以降、箜篌の演奏伝承は途絶えたが、建築荘厳具としての伝統は存続する。なお、今回とりあげた絵画史料からも推定されるとおり、のちには臥箜篌と同じコト形の絃楽器である箏(そう)も荘厳のために用いられることがあったようである。ただし、高野山関係の文献史料に絃楽器に関する記述は見当たらず、したがって、大塔の絃楽器が臥箜篌あるいは箏のいずれであるかは断定できない。ところで、建築を荘厳する絃楽器が描き込まれた絵画史料の中で、早期を代表するものとして、保延2年(1136)成立の「密教両部大経感得図」(藤田美術館蔵)があげられる。二幀のうちの一幀は、善無畏が金粟王塔の下で『大日経』の供養法を感得する場面であるが、この金粟王塔は、木製五重塔として描かれ、各層の軒下に絃楽器が吊られている。一方、最もくだるものは、安政5年(1858)から文久元年(1861)の間に制作された「石清水臨時祭・年中行事騎射図屏風」(白鶴美術館蔵)である。石清水臨時祭を描く右隻の右から一扇目、石清水八幡宮護国寺境内の宝塔院(琴塔)の軒下に、金色の絃楽器が吊られるのが確認できる(注6)。本稿でとりあげる大塔の図像は、成立年代的には、両者のちょうど中間に位置づけられる。したがって、絃楽器による荘厳の伝統を図像的に検討する上で、大変貴重な史料といえるのである。四、大塔の絃楽器の図像各作品の絃楽器の図像を見ると、次のようなことがわかる。とくに設置方法が、上述した8世紀の正倉院文書に記された箜篌のそれとほぼ同様である点が注目される。①絃楽器は、隅木の先端にある風鐸よりも内側に吊られた。吊る方向としては、隅木と平行(塔の面に対し45°角)、ないし桁と平行(面に対し平行)の二種に分けられる。②本体側面または背面の四カ所と、軒の四カ所に(花岳寺本は二カ所か)金具等をとりつけ、緒(正倉院文書の記載に倣いひとまずこう呼んでおく。以下同)でつないでいる。③行状図画のものには絃を表現したと思われる複数の墨線が平行に引かれていることから、絃を張った面を上にしていたらしい(注7)。

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