鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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日野西眞定「高野山参詣曼荼羅の研究」『尋源』第35号、大谷大学国史学会、1985年、1〜27注村重寧「高野山水屏風研究―中世大和絵障屏画研究(一)―」『MUSEUM』206号、東京 懐英(1642〜1727)『高野春秋編年輯録』(大日本仏教全書第131冊所収)巻第一、第二参照。■注参照。■拙稿「仏教建築荘厳具としての絃楽器について―箜篌と風箏を中心に―」『早稲田大学大■『大日本古文書』巻16、256頁・258頁・268頁・273頁。同巻25、313頁・318頁。■拙稿「石清水八幡宮寺の宝塔院(琴塔)について」『美術史研究』第42冊、早稲田大学美術史■ただし、密教両部大経感得図の金粟王塔を荘厳する絃楽器の場合は、絃を張った面を下に向け■梅津次郎「地蔵院本高野大師行状図画」『秘宝第7巻高野山』講談社、1968年、32〜37頁。ただし、第一巻のみ天保11年(1840)の模写。注参照。田口榮一「高野山曼荼羅」(新収蔵品解説)『昭和61年度 東京藝術大学術資料館年報』東京藝―144―おわりに高野山根本大塔の外部荘厳を描いた絵画史料によって、日本では奈良時代に始まった絃楽器による荘厳の伝統が確認される。最も時代がくだる作品である花岳寺本「高野山参詣曼荼羅」が江戸時代初期のものであるので、大塔には少なくともその頃までは伝統が存続していたように思われる。また、設置方法は、奈良時代と比べてほぼ変化していないことが分かった。建築を荘厳する絃楽器は当初、箜篌と呼ばれていたが、演奏用楽器である臥箜篌そのものを用いたのか、あるいは改変を加えたものだったのかという点は、残された史料からははっきりしない。また、高野山参詣曼荼羅各本に見る絃楽器の姿は箏に似ることから、箏が吊られたとも想定されるが、直接の文献史料を欠く。今後の研究課題としたい。国立博物館、1968年、4〜17頁。学院文学研究科紀要』第48輯・第3分冊、2003年、183〜194頁。学会、2004年、1〜22頁。る。術大学藝術資料館、1987年。頁。成相寺本についても述べられている。

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