―152―武定四年(546)銘弥勒三尊像は1.24、北斉天保三年(552)銘の山西省長子県菩薩像は1.55、北斉天保五年(554)銘菩薩立像は1.23である。これら中国の作例を通観すると、6世紀半ばまでは像高に対する光背高の比率が大きいが、6世紀後半になると8世紀の平均的数値である1.25に近似した数値の作例が出始める。もちろん採取した作例の数が少ないために、この比率から全体像を語ることは出来ないが、紀年銘のある作例に数値の変動があることは興味深い。それでは、同一の傾向が坐像にもあるのかどうかみてみたい〔表4上段〕。わが国における8世紀以前の作例で制作当初の光背を有すもっとも著名なものは、法隆寺金堂釈迦三尊像である。釈迦三尊像中尊の像高を1とする光背高は1.57であった。この作例は一光三尊形式で大光背をおっているが、中尊の頭光最上部を基準として算出した。ほかに、戊子年銘如来三尊像では1.51、法隆寺金堂薬師如来像では1.77という数値になった。先述のように、8世紀に制作された坐像については、像高を1とすると光背高は1.5となる可能性がある。しかし8世紀以前の作例でも、法隆寺金堂釈迦三尊像や戊子年銘如来三尊像は1.5に非常に近しい数値を呈している。中国の作例をみてみると〔表4下段〕、元嘉十四年(437)銘如来像は像高を1とすると光背高が1.21、北魏和平二年(461)銘如来像は1.46、北魏皇興五年(471)銘如来像は1.31、6世紀初頭北魏龍門石窟賓陽中洞中尊は1.31であるのに対し、龍門石窟の唐窟である万仏洞中尊は1.49、盛唐の敦煌莫高窟328窟では1.48という数値になっている。中国の坐像の作例で数値を採取できるものが非常に少なく数値の変動をみることは難しい(注10)が、少なくとも唐代に入ると像高1に対して光背高1.5という作例があることがわかる。右の立像と坐像の像高に対する光背高の比率は、坐像の場合、採取できた作例があまりに少なく変化の傾向をみることは出来ない。しかし立像の場合、6世紀半ば頃から数値がまとまり始まっている。それでは、6世紀半ばという時期は中国仏教美術においていかなる時期であったのであろうか。中国に仏教が伝来して以来、漢人たちは仏教における造形表現と古来脈々と伝わる自国の文化とを融合していった。小杉一雄氏(注11)は、雲岡石窟の造営後期に如来像の着衣が冕服式仏衣に変化し、それにともない裳懸座が発生したことを指摘している。さらに裳懸座は、雲岡石窟に続いて造営された龍門石窟で黄金期をみせたという。小杉氏は裳懸座のような造形表現について、左右対称に文様を整理して表現する漢代以来の漢人の美意識が六朝時代の人々に継承されたものと述べている。また吉村怜氏(注12)は、蓮の花から化生する仏菩薩や天人の表現について、雲岡石窟では天蓮華
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