鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―153―から蓮華化生、天人と変化するのに対し、龍門石窟では天蓮華から蓮華化生の変化の間にさらに変化生が存在すると述べた。また雲岡石窟と異なり龍門石窟では天人が華麗な雲に乗るともいう。吉村氏はこうした雲岡石窟と龍門石窟の相違は造営時期の違いだけでなく、漢民族の影響によるものとしている。このような中国仏教美術における造形表現の変化は、何世紀も培ってきた漢民族の図像に対するバランス感覚や美意識のなせるものといえよう。外来の仏教美術を消化していく段階で、仏像の像高と光背高に黄金比率のごときある規範を求めることはまさしく漢人の美意識であったのかもしれない。おそらくこうした見えない規範は、権力者周辺で最先端デザインを手がけるアトリエの工人たちによって創始され、整えられ、唐代に至ってひとつのシステムとして完成したと想像する。このことは、前述した唐代の中心地で制作された旧宝慶寺の仏龕の像高と光背高の比率が平均的数値を示していることからもわかる。そして、像高と光背の見えない規範がわが国で理解消化されるのも8世紀頃だったのであろう。4 8世紀における光背の制作規範西大寺に伝わる宝亀十一年(780)に撰述された『西大寺資財流記帳』には、仏像、台座、光背の高さの記載がある。かつて井上一稔氏は、『西大寺資財流記帳』の記載がどこからどこまでを計測したか不明であると述べたが、ここでは前章で検討した比率にしたがって記載を見直してみたい。『西大寺資財流記帳』(注13)に記す像高と光背高が明らかな仏像のうち、三尊形式の場合は中尊を対象としてまとめたものが次表〔表5〕である。まず、この表の坐像の項目をみてみると、すべての例で像高と台座高の合計が光背高を上回っているため、光背高の計測位置は床面からではないことになる。そこで、仮に光背高の計測位置を台座上面とみて像高1に対する光背高の比率を算出すると、薬師金堂の薬師像以外は前章で述べた坐像の像高を1とした場合の光背高の比率が1.5という平均値に近似することになる。8世紀に制作された坐像の光背には唐招提寺盧舎那仏像や新薬師寺薬師如来像のように、大型の周縁部を有す例がある。像高を1とした場合の周縁部を含む光背高の比率は、唐招提寺像では1.98、新薬師寺像では1.86と1.5という平均値を大きく上回る。したがって、『西大寺資財流記帳』に記載された光背高は、今回表にした例をみるかぎり台座上面から周縁部を含まない光背上部までを計測した可能性があると私は考える。例外的に1.5を下回る数値を示した薬師金堂の薬師像はあるいは周縁部のない光

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