鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―154―背であったのかもしれない。一方、立像については十一面堂の十一面観音像と不空羂索観音像の2例しかあげることができず、いずれも像高と台座高の合計が光背高を下回るために光背高の計測位置がわからない。まず台座上面から計測とした場合、像高1に対する光背高は1.45となる。床面からの計測とした場合には、1.11となる。いずれも前章で述べた立像の像高を1とした場合の光背高の比率1.25という平均値と離れている。これらの数値は、西大寺の立像が平均値と異なる光背であった場合、あるいは計測地点に問題がある場合のふたつの可能性が考えられる。しかし坐像がいずれも平均値と近似した数値を呈しているため、立像だけが大きく異なる形状の光背であったとは考えにくい。坐像の光背の計測は台座上面からで、まさに光背の取りつけ部を基準にしている。すると、立像の場合も光背の取りつけ部、すなわちéの部分から計測しているのではなかろうか。東大寺法華堂不空羂索観音像や聖林寺十一面観音像は、台座下框にé穴を設けていたからである。さて、前章で述べた像高1に対する光背高の平均値や『西大寺資財流記帳』の記載内容から、光背の形状は周縁部を含まない本体部分が基準となっているように見受けられる。おそらく、8世紀に活動していた官営造仏所では常に一流を求めてシステマティックに仏像制作にあたっていたであろうから、素材や制作技法、デザインに至るまでアトリエの共通認識が徹底していたことであろう。光背の形状は周縁部を含まない本体部分を基準とし、造仏工は、周縁部の透かし彫りや天人像を取りつけることで多様なバリエーションの光背を生み出したのではないかと私は考えている。おわりに仏像の像高と光背高の間に黄金比率のような見えない規範が存在し、その発生は中国南北朝時代であった可能性を述べてきた。このような仏像の像高と光背高との関係は、中国からわが国や朝鮮半島へ伝播したと考えられる。そして、一見自由に多様な制作を行なっていたかのような8世紀の造仏が、卓越した技術をもつ造仏工によって見えない規範をベースに行なわれていた可能性が高いのである。その後、時代が下ってくると官営造仏所以外でも活発に仏像制作が行なわれて、わが国における造仏の状況が変化し、より多様な表現がなされるようになってくる。例えば、東寺御影堂不動明王像では1.31、観心寺如意輪観音像では1.69と数値がばらついてくる。古典研究をしていたことで知られる定朝の基準作例である平等院鳳凰堂阿弥陀如来像は1.36であった。同じく古典を学習していた慶派の作例では、興福寺南円

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