鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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注松本榮一「「かた」による造像」(『美術史』159、1950年、1〜15頁) 明珍恒男『仏像彫刻』(スズカケ出版部、1936年)■清水善三「数値より見た藤原彫刻―方法の限界と可能性―」(『研究紀要』5、京都大学大学院■長谷川誠「創建期東大寺大仏の比例的復原」(『奈良国立文化財研究所年報』、奈良国立文化財研究所、1971年、2〜5頁)、長谷川誠「仏像の写真測量について」(『佛E藝術』74、毎日新聞社、1974年、27〜34頁)■拙稿「八世紀制作の立像光背に関する一考察―聖林寺十一面観音立像の光背残欠を中心に」■唐招提寺金堂盧舎那仏坐像は像高を1とすると光背高1.47、法隆寺伝法堂東の間阿弥陀如来坐■『中国四川省石窟摩崖造像群に関する記録手法の研究及びデジタルアーカイヴ構築』(研究代表■ミノルタVIVID300撮影画像をRapid Form(Inus Technology, Korea)で計測した数値による像高1に対する光背高の比率は1.467、画像処理による比率は1.45。光背高法量の誤差は3.1センチメートル。小林剛「佛像の丈量に關する一考察」(『日本彫刻史研究』、養徳社、1947年)―155―堂不空羂索観音像が1.26、北円堂弥勒像は1.20、円成寺大日如来像は1.30であった。したがって、定朝や慶派は様式や文様の面で古典を吸収していたであろうが、像高と光背高との間に存在したであろう規範までは具現しなかったことになる。最後に、本研究で検討した見えない規範については光背以外にも存在する可能性が大きいことを述べておきたい。光背に対応して台座も検討に含めるべきであったが、台座は仏身や光背の重量がかかるためか後補の場合が多く検討から外さざるを得なかった。しかし、西魏から西夏まで制作された中心柱窟である敦煌西千仏洞第7窟では、中心柱下部の三尊像や前室上部奏楽天人の図像に像身や光背などの位置を決定する下描きのラインがはっきりとのこされている。絵画作例の下描きというと冒頭で述べたように敷き写しを連想するが、西千仏洞の下描きのラインは工人が画面の中で像身や光背の割合をいかに想定していたか、その制作プロセスがうかがえる作例である。このような作例はおそらく他にも存在すると思われ、現地で詳細に観察を続けることでさらに仏像制作の過程について検討していくことを今後の課題としたい。末筆ながら、本研究を進めるにあたって、調査の便をはかっていただいた敦煌研究院牛源氏、三次元画像の閲覧及び使用をご許可いただいた早稲田大学文学学術院肥田路美教授に伏して謝意を表したい。文学研究科美学美術史学研究室、1984年、1〜13頁)(『佛E藝術』288、毎日新聞社、2006年、65〜82頁)像は1.45、新薬師寺薬師如来坐像は1.52である。者肥田路美、平成13〜16年度科学研究費補助金 基盤研究A 研究成果報告書、2005年)

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