鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
181/499

ジャハーンギールの自己イメージ―171―身を神話的英雄とみなしていた。それは彼が事実上の建国者であったからである。初代ムガル皇帝はそもそもティムール朝(1370〜1507年)の王子のひとりで、ティムール朝末期に、北インドに南下してムガル帝国を築いた。この外来政権は、2代目フマーユーン(在位:1530〜40、55〜56年)時代に、そのすべての領土を、一度、シェール・ハーンに奪われたため、あらためて帝国を再建設しなければならなかった。アクバルは北インドを再び征服し、支配体制を確立した。アクバルは征服を行う英雄物語を好み、ムガルの歴史書、『アクバル・ナーマ』を作らせ、挿絵をつけさせた。その中で、アクバルは戦い、インドを征服し、都市を築き、宮廷をおさめ、後継者を得、帝国の基礎を盤石なものにした歴史が示されている。人物の表現においては、〔図1〕《1571年ファテプル・スィークリーを視察するアクバル》にみられるように、アクバルは3/4正面方向を見、場面の状況を説明するために、身振りが強調されて描かれている。アクバルは、他の人物より大きく、王の付属物である玉座や天蓋、そして侍従などをともなって表わされた。アクバルは『アクバル・ナーマ』という物語中の英雄として表象された。それに対し、ジャハーンギールは、生まれながらにして、将来皇帝となることがほぼ確定しており、相続すべき版図も確保されていた。ジャハーンギールは、征服し建国する英雄ではなく、生まれながらにして「皇帝」という存在であった。さらにジャハーンギールは「世界の支配者」であろうとした。インドでの政権が比較的安定してきていたジャハーンギールは、サファヴィー朝やオスマン朝といったイスラーム世界からの外交使節、そして海上からはヨーロッパ諸国からの使節の訪問という刺激もうけ、世界へ眼を向けた。ジャハーンギールは世界中の支配者に興味をもち、王の肖像を収集するにいたる(注3)。つまり、ジャハーンギールその人は、広大な版図を征服したティムールの直系であり、単なる諸王の一人ではなく、世界の支配者であるべきであった。世界の支配者としての認識は、彼の即位名、ジャハーンギールが、「世界をつかむ者」、という意味であることからもわかる。ジャハーンギールは、世界を支配するムガル皇帝として、自身をふさわしい姿であらわそうとした。ジャハーンギールの姿は、歴史書の登場人物としてではなく、一枚の独立した肖像画として描かれている。〔図2〕《ジャハーンギールとアクバルの肖像画》にみられるように、その姿勢も、アクバル時代の、ナラティフな身振りではなく、物語やその状

元のページ  ../index.html#181

このブックを見る