―172―3.ムガル帝国の理念4.ムガル帝国とオスマン帝国の外交関係況から切り離された、単独で静止した威厳のある姿勢で描かれ、その顔は横顔で表現されている。またこれ以前のムガル絵画にみられなかった円光、天使、宝珠、地球儀といった新たなアトリビュートが付与された。これらの寓意表現は、後述するようにこれ以降ムガル皇帝の政治理念・世界観を表象する造形言語となったものである。このような、単独像で、象徴的アトリビュートを伴った新たな皇帝肖像画は、まさにジャハーンギール時代に創造された。アクバルの統治下で確立され、アクバルの子孫たちに規範として継承されたムガル帝国の理念の要となる考えは、ムガル一族が、中央アジアや西アジアにおいて広範に支配者の一族と認められているティムールの子孫と自負していたことにある。そして、ティムール朝と同様に、ムガル一族も聖なる母、アラーンクワーを先祖とすると主張した。『アクバル・ナーマ』では、アラーンクワーは「神の光」によって受胎し、その「神の光」は次々と子孫に受け渡され、アクバルに到達したとされている。また、制度集成、『アクバル会典』の中には、理想の皇帝像について述べられている。すなわち、皇帝は精神世界と現実世界との両方の嚮導者となって人々の間の普遍的和解をめざすものであること、皇帝権は神からの賜物に由来すること、皇帝には様々な資質が備わっているが、とりわけ知性と度量と公正さが求められること、そして皇帝は世界の番人であり時代の大君であることの4つにまとめられる。また、皇帝権は神より出づる輝き、太陽から発する光、完璧な書物の便概、諸徳の集約所などの記述がみられる。そしてアクバルは、この理想的な皇帝にまさに一致する人物であったと主張されるのである。ムガル帝国とオスマン帝国の交渉は、フマーユーン時代末からはじまった。フマーユーンは、オスマン帝国の提督を歓迎し、高位を与え、スレイマン1世に友好的な文書を送った(注4)。しかしアクバル時代は、オスマン帝国の使節がアクバルの即位式に遅れ立ち会うことができなかったことや、アクバル自身も南アジアにおける領土拡大に集中していたことから、オスマン帝国との関係を構築することは考えなかった。一方、オスマン帝国側は、サファヴィー朝と敵対していたため、16世紀初頭から同じく敵対していたウズベクと同盟を結んでおり、ムガル宮廷とも同盟関係に入ることを望んでいた。オスマン帝国はイエメン統治者を外交使節としてムガル宮廷に派遣した。
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