鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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5.ムガル皇帝の肖像画にみられるスルターンの肖像画―173―しかしアクバルはオスマン帝国の傲慢な態度に敵意をもち、同盟を拒絶し、大使をとらえ追放した(注5)。ムガル皇帝が、スルターンとその大使たちを「傲慢」ととらえたのは、16世紀以降のオスマン帝国が、自国は単なるイスラーム諸国の一つではなく、イスラーム世界を代表する国であると自認していた誇りが態度に表われていたと考えられる(注6)。このオスマン帝国の意識は、セリム1世(在位:1512〜20年)が、イスラーム世界の古くからの中核地、シリア・エジプトを支配するマムルーク朝(1250〜1517年)を滅ぼし、メッカとメディナを庇護下におき、またビザンツ世界を包摂して「異教徒」に対する聖戦の旗手となったという実績に基づいていた(注7)。ムガル皇帝はこれに対し対抗意識をもち、1579年マフザルを発布した。これはイスラームの教義決定者(ムジュタヒド)の間で意見の相違があった場合、アクバルがそれらの解釈のうちから一つを選択する権利を持つという宣言であり、自国の自立性を主張する、いわばカリフ位の宣言であった。メッカとメディナへの送金を取り止め、暦をイスラームのものから独自のものにきりかえた。さらに、アクバルはオスマン帝国に対抗してスペイン王と同盟を結ぶために、使節団の派遣を試みた(1582年)(注8)。次代のジャハーンギールは、1402年のアンカラの戦いでティムールのバヤズィト1世(在位:1389〜1402年)に勝利を収めたことを誇りに思っており、スルターンを「私の家臣」とよび、アクバルと同様にオスマン帝国を重視しなかった(注9)。サファヴィー朝と交戦中のオスマン帝国は、1608年と1615年に使節をムガル宮廷に送り、サファヴィー朝を支援しないよう申し入れを行ったが、ムガル皇帝は受け入れなかった。ジャハーンギール時代における、一貫したオスマン帝国を拒否する方針の背景には、隣国サファヴィー朝との外交を重んじていたという理由がある。サファヴィー朝のシャー、アッバース1世(在位:1587〜1629年)は手紙や贈り物を頻繁にジャハーンギールに贈り、友好関係を築いていた。ジャハーンギールが他国からの贈り物として絵画を非常に好んだのは当時ムガル宮廷でよく知られていた事実であった。ムガル宮廷に出入りしていたイエズス会士やイギリス大使サー・トーマス・ローは、ジャハーンギールの歓心を買い、使節の目的を成功させるため、本国に絵画を送るよう依頼している(注10)。ジャハーンギールに謁見しているオスマン使節も、その記録は発見されていないものの、他の使節と同様に自国のスルターンの肖像画を贈った可能性はある。

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