鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―175―れている作品がいくつかあるが、その作品の中の一つをモデルにしているのであろう(注14)。また、衣装については、アブル・ハサンのスルターンは赤いカフタンの上に金の刺繍がほどこされた濃い緑の細長い布を肩にかけている。この細長い布は、〔図7〕にみられるように、実はカフタンの襟の部分であったが、アブル・ハサンは理解できず描いた。アブル・ハサンは版画のバヤズィト像を手本とし、着色の際に、何か別の作品、例えば1480年制作のジェンティーレ・ベッリーニ作《メフメト2世》〔図9〕などを参考にしたと推察される。このようなカフタンの襟の描き間違いは、2枚目にあたる、〔図4〕のビチットゥル作《スーフィーに本を贈るジャハーンギール》の中で描かれているスルターン像〔図8〕ではみられない。このビチットゥルのスルターンは、ジョヴィオのバヤズィトの特徴とされる、口髭、とがった鼻、幅広の襟のついたカフタンがあらわされている。そしてさらにアブル・ハサンの図像では省略された、耳の近くに垂れ下ったターバンの端―誤解され装飾がほどこされているものの―も描かれている。さらに、ジョヴィオのバヤズィトにも無い、王冠がターバン上部に加えられている。このようなターバンをつけるスルターンは、特に16世紀後半のヴェロネーゼ派の絵画の中にみられる。これはスレイマン1世(在位:1520〜66年)の大宰相イブラーヒム・パシャが、スレイマン1世の1532年ウィーン行軍用に、神聖ローマ皇帝カール5世に対抗するために制作させた、ヨーロッパ向けの王権のシンボルの一つ、多重冠に由来している。黄金の多重冠は当時のヨーロッパに強いインパクトを与え、オスマン帝国固有のものと理解され、王冠をのせたターバンはスルターンのアトリビュートとしてたびたび描かれたが、実際はオスマン帝国に由来するシンボルではなかった(注15)。ムガル帝国にも王権のシンボルとしての王冠は元来存在しなかったが、他国からの王の肖像画を獲得して以来、ティムールのかぶっていたヘルメットを王冠風にアレンジし、ムガルの王権を表すシンボルとして絵画の中に導入した〔図10〕。そして最後の作例では、ハシム(上)とアミ・チャンド(下)作《ジャハーンギールとトルコ人》(1615〜1620年頃〔図5〕)の下段にスルターンが描かれた。このスルターンは他の2枚とは異なり、襟なしのカフタンを着、王権の象徴物である笏を持つ。この図像は別の霊感源をもっていると思われるが、やはりヨーロッパの絵画様式で制作されている。オスマン宮廷ではヨーロッパの絵画様式で制作された作品と、オスマン宮廷の画家がペルシア絵画様式で制作した肖像画の、2種類があった。またアミ・チャンドが表すスルターンは本を持つ。オスマン帝国のペルシア絵画様

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