―183―バロワ領ドンレミ村(現ドンレミ・ラ・ピュセル、ヴォージュ県)で、裕福な農家の家に生まれる。1425年、13歳のときに神の声を聞き、救国の信託を受けたと信じ、1428年には、百年戦争で荒廃したフランスの領土を取り戻すべくオルレアンをイギリス軍から解放した。そして、シャルル7世をランスで聖別、戴冠させるのに尽力した。しかし、後にイギリスと共謀するボーヴェの司教ピエール・コーションらにより、異端の宣告を受け、裁判の上、ルーアンで火刑に処せられる。その後、1456年破門判決が破棄され、復権裁判が開かれて復権した。ジャンヌ・ダルクは20世紀においてにわかにその存在が高められる。それは宗教的事項と社会、政治的事項、その双方が互いに関係し合う事項においてみることができる。宗教的側面において、ジャンヌ・ダルクは1909年にローマ教皇レオ13世により聖女に準ずる福女に列せられる。そして、奇跡治癒の申請がなされ、1914年にジャンヌの奇跡の真正が認められ、1920年には教皇ベネディクトゥス15世によりついに聖女にまで登りつめるのである。こうしたジャンヌの評価には、フランスのカトリックの権威失墜と第三共和制のナショナリスムの興隆が関係している。つまり、フランスでは、首相ジュール・フェリーによる政教分離政策により、1905年に学校教育におけるカトリック教会の支配がなくなる。これを受けて、信徒が教会を助ける組織的活動であるカトリック・アクションのような教会の権利復興運動が高まる。こうしたフランスカトリック教会の権力が喪失していく状況において、フランスのために戦ったジャンヌ・ダルクを評価しようとしたことは注目に値するだろう。一方、政治的、社会的側面において、ナショナリスムの興隆に、1870年の普仏戦争での敗北と、その後1898年のドレフュス事件、つまりフランスでのスパイ疑獄事件が関わってくる。1894年、ユダヤ系参謀本部付砲兵大尉アルフレッド・ドレフュスは陸軍の機密文書をドイツへ売却した嫌疑で終身刑に処せられた。しかし、軍部が事実を隠ぺいしたとし再審を求めるドレフュス派と、軍部、教会を中心とした反ドレフュス派とで国論が二分した。ドレフュスは1899年に釈放されるが、この事件は政治的、社会的大事件となった。この事件とジャンヌ・ダルクはそれほど遠いところにあるわけではない。ジャンヌがフランスを象徴するような聖女であったため、ナショナリスム的運動とも連動したのである。フランス革命を発端とするフランスのナショナリスムは、他国のナショナリスムとは異なりはじめは左翼的運動であったが、次第に他国同様激しい右翼的運動へ向かうことになるが、ジャンヌ称揚の発端は、その動きと連動するように左翼的活動からである。おそらく最も有名なものは1841年に出版されたジュール・ミシュレの『フランス史』に記されたジャンヌに関する記述であろう。それ
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