―184―から後、1884年に共和派ジョゼフ・ファーブルがジャンヌ・ダルクにちなんだ国民の祝日を制定しようと主張した。この国民の祝日の制定を巡って、10年近く議論が続き承認される。この祝日は教権派にとって喜ばしいものであるが、ジャンヌは一度宗教から断罪されていたため、反教権派からも受け入れられていたのである。時期を同じくしてドレフュス事件が起こり、ドレフュス派、反ドレフュス派の論争は激しくなっていき、反ユダヤ主義を掲げる右翼的ナショナリスムが台頭する。ここで、ジャンヌ・ダルクを支持していた右翼的ナショナリストは、ジャンヌ・ダルクへの忠誠心とユダヤ人への憎悪を結びつけることになる(注4)。ジャンヌ・ダルク崇拝は、ナショナリスムの動きに連動しながら、その意味を付加していくのである。2.ジャンヌ・ダルクの図像表現ジャンヌ・ダルクの図像は、1956年のルイ・レオの『キリスト教美術の図像』によると、以下の三つの型に分類されるという。1.神の声を聞くジャンヌ、2.武装したジャンヌ、3.火刑のジャンヌである(注5)。そのうちで、1581年にオルレアンの役人たちにより注文された《羽飾りの帽子を被るジャンヌ・ダルク》(オルレアン歴史考古学博物館、1581年)〔図1〕は、19世紀初頭までジャンヌ像の原型をなした。19世紀初頭以降は、非常に多くのジャンヌ像が描かれるようになる。ジャンヌ・ダルクの図像に関しては、オルレアン解放550年記念行事に貢献した展覧会カタログ「ジャンヌ・ダルクのイメージ」展(1979年)で網羅されている。それによると、はじめてのジャンヌの肖像といわれる1428-1436年に羊皮紙に描かれたプロフィールによる表現以降、ジャンヌを主題としたものが多く描かれてきたが、その数は、デッサンを含め絵画だけでも180点ある。彫刻に関しては、1850−1930年の間に制作された記念碑や彫刻が349点にも及ぶという。特に第三共和制におけるジャンヌの彫刻は、極端に異なる姿で表された。つまり、教権支持の王党派は、王座を強固にするために神により送り出されたジャンヌを表象し、反教権主義の共和派は、教会のヒエラルキーに抵抗するジャンヌを表象したという(注6)。絵画に関していえば、各時代の流派に即し、多くの場面が描かれた。19世紀の王政復古期には、1841−49年にジュール・キシュラ編纂の『ジャンヌ史料集』(5巻)が出版された影響により、多くの人々に認知され、ジャンヌは歴史上の偉人として取り上げられ、王政復古を象徴するヒロインとして描かれた(注7)。19世紀末になると、象徴主義的な特徴を示すように、神の声を聞くジャンヌなど、ジャンヌの神秘性を、時にはオカルト的な姿を強調する作品が多く描かれるようになる〔図2〕。また、連作としても制作され、リオネル・ロイエ
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