鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―186―だろうが、同時に歴史的な誤りを犯さないように注意を払いながら、細部描写へのこだわりを示す作品を制作しようとしていたためと思われる。広角で枠取られた画面からは、儀式の瞑想的、神秘的側面よりも、歴史画として儀式そのものが強調されていることが窺える。《ジャンヌ・ダルクの聖体拝領》この作品は、ドニが描いたジャンヌの絵のうちで、パステルによるデッサンを除いて唯一完成された絵画である。この作品も、ガブリエル・トマによる依頼である(注10)。1910年にソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールのサロンに出品された。中心部では、男装し、跪いたジャンヌがおり、聖餅をもらうところがクローズアップされている。その左側に神父と使いの子供が垂直に立ち、右側には、兵士が直立している。後景には、兵士たちが連なり、奥行きが感じられる。聖別式の場面よりも、作品の幅は限定され、まとまりがあるが、ジャンヌの肖像画というよりは、聖体拝領が強調され、儀式的場面が強調されている。上部は中心部制作後に追加で制作されたものであるが、そこには、フランス国旗の色の羽をつけた天使がおり、ジャンヌの言葉から取ったであろう「天の神の名の下に」と記されたリボンを広げている。これらの作品の制作年は1909年頃であり、ジャンヌ・ダルクの列聖に関連して制作されたことは明らかであろう。それに加え、前述のジャンヌ・ダルクと政治の関係、もしくは、ドニの政治的意図と関連して描かれたものなのであろうか。その点について次に考えてみたい。4.ドニとナショナリスムドニと政治的な事柄との結びつきは、1900年頃に頂点をなすが、その結びつきは、ナビ派時代にまでさかのぼることができるだろう。1890年代からのもっぱらの政治的関心事といえば、ドレフュス事件であった。1978年に『ナビ派、彼らの歴史と芸術1888−1896』でナビ派に関する詳細な分析を行ったジョージ・マウナーは、ナビ派は、1890年代にはドレフュス派であったとさえ述べている(注11)。確かに、ナビ派結成以降、メンバーたちは新しい絵画運動をつくるべく改革路線を明確にしている。彼らの芸術運動は、エキセントリックな前衛運動ではなかったにせよ、ゴーギャンの後継者として、印象派とは異なる新しい絵画を創造しようとしていた。しかし、そこには、新印象派に見られるような、アナーキスムの思想はなく、むしろ、政治への関心はそれほど高くなかったといえよう。ナビ派が直接的に政治的に関与していくことになるのは、ドレフュス事件後のことである。彼らの重要な活動拠点のひとつであった文芸

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