鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―187―雑誌『ルヴュ・ブランシュ』は、『オーロール』紙にドレフュス逮捕への抗議を記したエミール・ゾラを支持し、ドレフュス派へと傾倒していく。それを機にナビ派のフェリックス・ヴァロットンやアンリ=ガブリエル・イベルは、ドレフュス支持を明らかにする版画作品などを制作するようになるが、そうした活動がゆえにドニが同誌から離れることとなった。というのも、ドニは彼らの活動に嫌気がさしたからである(注12)。この頃のドニは、彼らとは正反対の方向に実際に政治的な事柄に多少なりとも関心を抱いていた(注13)。というのもアドリアン・ミトゥアール(1864−1929)との親密な交際により、彼らのナショナリスティックな思想に影響を受けていたからであろう。実際、ミトゥアールはドニの友人で、1900年にともにイタリアへ旅行することになるが、彼は、1901年に西洋的思想を促す右翼雑誌といえる『オクシダン』誌を創刊する。ドニもその雑誌に寄稿することになる。また、ドニのパトロンであり、友人でもあった、ヴァンサン・ダンディーやその娘ラ・ローランシー夫人もまた保守的思想の持ち主であり、その影響も大きかったことが伺える。それ以外のドニの友人、パトロンたちに関しても、温和で考え方が保守的な人々が多かったといわれている。ドレフュス事件に関していえば、1899年にデュラン・リュエル画廊で行った展覧会は興味深いものである。そこでドニは、ナビ派におけるセム系、ラテン系の特徴について言及している。マチエールや色彩、タブローの大きさ、描かれる対象を判断基準とし、ヴュイヤール、ボナール、ヴァロットンの作品をセム系とし、セリュジエ、ランソン、ドニのものをラテン系としている(注14)。このことから人種差別的意識は感じられないものの、民族的特長から作品の分類が可能であるという民族学的意識が見て取れる。さらに、ドニはラテン民族と美術について考察し、1905年の論文『ナショナリスム的反動』で印象派に対する反動としてのナショナリスムについて言及している(注15)。ドニのナショナリスムに関する言及は、民族による美術上の指向の違いを示しているが、そうした考えは、同時期の科学思想の発展、政教分離によるフランスカトリック教会の失墜、それに伴うカトリック教会の反動といった社会変動を反映しているといえよう。実際にドニは教会建築に携わっており、1898年にル・ヴェジネにあるサント・クロワ教会の装飾、1901年に、同じくル・ヴェジネにあるサント・マルグリット教会内のサクレ・クール礼拝堂、聖母マリア礼拝堂の装飾を依頼される。また、ドニは、論文『宗教芸術の現在の状況』において、当時のキリスト教美術の問題を現代美術の危機のひとつの局面として捉え、これまで自分がしてきた努力を示し、宗教芸術の改革推進の必要を意識的に説いている(注16)。このようにこの時代のフ

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