鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―197―は「装飾的傾向Decorative Tendency」と「構造的傾向Structural Tendency」とが並置されて示されている(注15)。チャートでは、「非幾何学的抽象」と「幾何学的抽象」とが当時の現在形の美術であると提示された。だが、1930年代半ばには、抽象美術を最終的な到達点とするこのような記述は奇妙に見えたはずである。何よりもまず、当時、抽象美術が主流であるとは誰にも考えられていなかった。例えばシャピロは当時の状況を次のように記している。「今日では抽象芸術とそのシュルレアリスム系の子孫はますます対象物との関係を深めており、抽象芸術のかつての主張がもっていた反乱者としての革新の元来の力は失われてしまった。この芸術を形体の全歴史の論理的決着点として支持していた画家たちは折衷的な自然形体へ回帰することによって自己批判を行った」(注16)。美術批評家アルフレッド・フランクファーターの展評も、抽象美術が最早衰退したものであることを強調し、抽象美術を「機械時代」の芸術であると論じたうえで、機械が新しかった時代に抽象美術は誕生し、それが一般化するにつれて衰退したと語り、展示作品のほとんどは時代遅れの印象を与えるとさえ書いている(注17)。当時、現在進行形の(あるいは未来の)美術として認識されていたのがどのようなものであったのかは、E. M. ベンソンによって書かれた展評の一節が教えてくれる。「この展覧会は、今日のヨーロッパの芸術家たちが辿ってきた道をはっきりと示してくれてはいるが、近年の社会的出来事の大きな流れが、彼らの進む道を大きく変え、抽象美術へと向かうのではなく、むしろそこから離れていく新たな方向へと向かわせていることを指摘するものとはなっていない。フランスにおける「人民戦線」という政情は、フランスのみならずアメリカにおいても美学的に深い影響を及ぼしている。これから先10年の美術は、人類の運命から孤立しているのではない美術となる可能性のほうがずっと高いだろう」(注18)。バーの歴史叙述は当時においてさえ疑問視され、歴史的状況と深く関わる美術の展開に目を向けてこそ、むしろ正しく美術の発展を捉えられるのだと思われたのであり、バーの叙述は当時のリアルな感覚とはそぐわないと思われてもいたのである。しかし、バーがそのような状況を何も認識しないままに自らの歴史叙述を作り上げたと考えるのも早計だろう。クレメント・グリンバーグが30年代後半を回想した文章には、実際にはバーもまた非抽象的な美術に強い関心を払っていた様子が記されている。「あの頃、アルフレッド・バーは、自然への回帰に強く入れ込んでおり、アメリカ抽象画家連盟が毎年開く展覧会を近代美術館で開催させてほしいと申し入れても却下していたのである。彼ら抽象画家たちは、既に袋小路となった道を進もうとしてい

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