鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―198―る、とさえ言われたのだ」(注19)。このように書かれたバーの態度は、『キュビスム』展の歴史記述の書き手にはおよそそぐわないものだろう。バーのチャートは、彼自身も実感していただろう当時のリアルな状況を見事に裏切っていたとも言えるのである。ベンソンと同様に左翼的立場から批判を加えたのはジェローム・クラインであった(注20)。コロンビア大学で教鞭をとってもいたクラインは、当時シャピロが組織していたモダン・アートの私的研究会のメンバーの一人でもあった。この研究会にはバー自身も参加し、ロバート・ゴールドウォーターや『ニューヨーカー』誌の美術記者ルイス・マンフォードも加わっていた。バーにとっては、クラインは研究仲間の一人でもあったわけである。クラインにとって問題であったのは、抽象美術が「今日のほとんどの人々の生き生きとした関心からはまったく乖離してしまっているがために、抽象美術には未来がない」ということであった。「人々の生き生きとした関心からは乖離してしまったものだとすれば」、では「純粋性は一体何のためにあるのか」。クラインがつきつけた問題は、このようなものであった。この批判に対して、バーは「抽象美術の社会的評価を試みていない」というクラインの指摘は正当だと認める手紙を彼に書き送っている(注21)。そこにバーはこうも書いている。「もちろん、もしマイヤー・シャピロが社会的視点によるモダン・アートの歴史を出版したならば、我々はさらに多くの知見を得ることになるだろう」と。そしてシャピロは、翌37年に「抽象美術の本質」を発表するのである。しかし、抽象美術を社会的視点から論じようとしたのは、シャピロが最初であったわけでもない。研究会のメンバーの一人であったマンフォードの展評は、まさにこの視点から書かれたと指摘しうるものである(注22)。彼の展評は抽象美術を擁護する姿勢で貫かれているのだが、その際に彼が強調するのは、「抽象美術の作家たちは、…現在の生のあり方から分離してしまっているのではない」ということであり、「抽象美術の主要な表現の一つは、我々が実際に生きている世界を新たな形式によって象徴させる試み」だということであった。抽象美術が新しい生活経験と密接に結びついており、それはたとえ困難を伴うにしても形式から読解されうるのだというマンフォードの主張は、バーが試みた形式的側面のみからの抽象美術の歴史記述を、社会的経験という視点から書き換える必要があるのだと説く重要な問題提起となっており、それはシャピロの批判に先がけるものでもあった。『キュビスム』展への批判は右翼的立場からもなされた。当時のナショナリスティックな美術批評を代表するトーマス・クレイヴンの展評は、非常に激しい言葉で綴ら

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