―199―れている(注23)。彼は、同展を「フリークス・ショウ」と呼び、カタログを「内容の無いたわ言の見事な見本」とも形容している。彼にとって抽象美術は、「精神的無能さや社会的不適応の代償であり、結局失敗に終わったもの」であり、「〔抽象美術の〕芸術家やその気取った擁護者たち」は「判断を誤った夢想家か詐欺師」であった。彼が同年に発表した「美術におけるナショナリズム」に記しているように、「アメリカは、つい最近まで、輸入された文化的フェティッシュに対してあまりに騙されやすく、寛容であったため、腐りつつあるヨーロッパの抽象美術への植民地的な屈服の中に留まろうとしてきたのである」(注24)。彼にとっては、『キュビスム』展は、まさに「植民地的屈服」以外の何ものでもなかっただろう。アメリカ国民の魅力的な生活を描き出し、彼らの健全なナショナリズムを育むアメリカン・シーンの美術こそが、堕落したヨーロッパの抽象美術に勝るものだというのがクレイヴンの主張であった。抽象美術を認めるのであれ、認めないのであれ、『キュビスム』展をめぐる同時代の批評に目を向けると、それらに共通の問題意識があることがわかる。それは、現在に生きる人々の生き生きとした経験や関心の中で美術を捉えようとする意識であり、そのような視点から美術を論じようとする態度である。バーの主張通りに抽象美術を「純粋なもの」とみなす者たちは、それが生きられた体験と直接関わりを持たないがゆえにその価値を認めず、あるいは最早現在の問題に直接関わるアクチュアリティを持たないとみなした。左翼的批評家は、抽象美術よりも「人民戦線的」美術の価値を説き、保守的批評家は、アメリカの生活体験を描き出す美術に比べれば、抽象美術はアメリカ国民には無意味だと主張した。こうした状況の中で、マンフォードやシャピロのように抽象美術の価値を積極的に認める者たちがとった立場もまた、形式的純粋性ではなく、社会的視点だったのである。つまり『キュビスム』展は、モダニズム的「純粋性」の正当性を確立したものでもなければ、モダニズムに確固とした土台を与えたものでもなかったのである。むしろ『キュビスム』展を文字通り「たたき台」として、その形式的歴史叙述を批判しつつ、社会との関連を視野に入れて抽象美術を語ることが当時は大きく促されたのであった。しかし、1950年代以降、抽象美術をめぐる議論が再び「純粋性」を中心としたものに戻され、社会的問題ではなく形式的問題として捉えられるようになったのは周知の通りである。また、そのような方向転換にグリンバーグが大きな役割を果たしたことも今さら指摘するまでもない。しかし、一つだけここで指摘しておきたいのは、グリンバーグがモダニズム的歴史叙述を最初に示した論考である「さらに新たなるラオコーンに向かって」(1940年)が、『キュビスム』展をめぐって展開された抽象美術につ
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