鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―200―いての議論を、おそらくは批判的に引き継いで書かれたのではないかと思われることである。例えば同文の中には次のような一節がある。「あの衝撃的行動〔=アヴァンギャルド〕は、確かにブルジョワ社会に起源を持つには違いないが、その社会の否定を装い、それに背を向けるものとしてしか現れることができなかった。それは新しい社会へ向けての方向転換ではなく、資本主義〔=ブルジョワ社会〕から芸術の聖域となるボヘミア〔=解放区〕へと移住することであった」(注25)。このような文章は、抽象美術を新たな社会経験との関連で論じようとしたマンフォードやシャピロの議論に対して(バーに代わって)反論しようとしているように思われるのである。いずれにしても、バーの歴史記述は、その後それが近代美術館のコレクションによって示され続け、またグリンバーグという強力な批評家の登場もあり、当時の対抗言説に打ち勝って主流派言説となることとなった。ところで、『キュビスム』展に応答したのは批評家たちだけではなかった。作家たちからも、その歴史叙述への反論がなされたのである。中でも重要なのがカンディンスキーによるものである(注26)。例えば彼は、自分が抽象的作品と具象的作品を同時に描いていたと主張し、再現的描写を捨てて抽象美術へと向かうという直線的進歩としての抽象美術の歴史叙述に異議を唱えている(注27)。しかし、カンディンスキーの批判が最も明瞭なのは、彼がバーに送った手紙ではなく、画商J. B. ニューマンに送った手紙である(注28)。そこで彼は、全てがキュビスムに発するかのように語る「パリ病」をバーは患っていると語り、自分の抽象美術はキュビスムとは一切関係がないと主張するのだが、これこそが彼とバーが最も見解を異にする部分であった。1937年に、当時のジュ・ド・ポーム館長であったアンドレ・デザロワが『アンデパンダン美術の起源と発展』展を準備している際に、カンディンスキーは彼に手紙を送り、抽象美術がキュビスムから生まれたとする見解を完全に否定している。「正確ではないと私には思われる唯一の点は、二つの運動の差異に関してです。それらはどちらもセザンヌから発したのですが、後には全く別々に独立して発展しています。つまり、キュビスムと抽象美術です。二つの運動はほぼ同時期に、1911年にこの世に生れました。キュビスムは抽象美術の「兄弟」なのであり、「父親」ではないのです」(注29)。この『アンデパンダン美術の起源と発展』展は、『キュビスム』展と同様にモダン・アートの歴史叙述を試みた点を特徴とする展覧会であった。そして、そこに展開された叙述は、カンディンスキーからすれば、『キュビスム』展と同様に問題をはらむものであったのである。しかし、このようなカンディスキーなどの作家たちの介入を通じて、それらの展覧会で語られたモダン・アートの発展史は、互いにせめぎ合い、

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