―208―「光起之印」と読める白文方印が捺される。また右隻の各扇に1カ所ずつと左隻の1代花鳥図の展開−(上)・(下)」(注3)、次いで重要文化財に指定された折の宮島新一氏による「土佐光起の紙中極めがある四季花鳥図屏風」(注4)が挙げられる。昭和44年当時は瀬津家の所蔵、後にサントリー美術館の蔵品となり現在に至る。両隻の端には「土佐弾正忠廣周筆 光起證之」という極め書きがあり、その下に扇目と6扇目に1カ所ずつの計8カ所の引手跡が確認され、帳台構から屏風に改装された可能性が中島純司氏によって指摘された。他方で紙継ぎに乱れが見られないこと、六曲一双の画面と見て構成に破綻のないことから、元々屏風として制作されたものが一時他の画面形態に改変されたものの再度屏風へ改装されたとする宮島新一氏の意見もある(注5)。当初の画面形態について現段階で確証を持って述べられることはないが、仮に元々屏風であったとしても改装されていた時期があったことは確かであり、画面が切り詰められた可能性は考慮される必要がある。事実、隣り合った屏風の扇同士で部分的に図様が繋がらないところがあることが確認される。光起(1617−1691)の極めによって、本作品の作者に擬せられた土佐廣周は『土佐家文書』に永享11年(1439)よりその名が見え、模本奥書に文安5年(1448)の年記のある「天稚彦草紙絵巻」を描いたことが分かっている。また応仁2年(1468)までには出家して経増と号し、延徳4年(1492)まで記録に登場する(注6)。本作の制作年代は15世紀後半から末頃にかけてと推定されている(注7)が、廣周の活躍時期はこれに矛盾するものではない。しかし、本作を廣周筆とする根拠はなく、先行研究に於いては「制作年代を考える時に参考にすべき程度のもの」(注8)とする態度が大半を占める。本報告でも、15世紀後半という制作年代を受け入れた上で考察を加えることとする。画面右隻には春から夏にかけての花木が、左隻には秋から初春にかけての花木が描かれ、その間を縫うようにして流水や岩・土坡が描かれる。梢に留まる鳥や花のまわりを飛ぶ蝶が描かれ、地には金泥引による雲霞表現を伴う。金泥引の霞や水流には、補彩が指摘されるものの、図様やモチーフの形態に大きな変化があったとは考えられておらず、筆者もこの意見に従う(注9)。本作のモチーフの選択については、「やまと絵の伝統の中で親しまれてきた樹木を除外し、全体に異国的な雰囲気を作り出している」(注10)点が指摘され、描法の点からも中国絵画との関わりが常に問題にされてきた。一方、水流の筆線や土坡の形態にはやまと絵系の屏風との親近性が指摘されている(注11)。このため、先行研究及び全集、図録等に掲載された作品解説には、本作をやまと絵系の絵師が中国絵画の影
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