鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―210―とができるのは、将軍や管領、禅僧や公家といった限られた階層の人々だけであった、とする。氏の指摘どおり、室町期の庭園の植栽を調べてみると、実に様々な花木を植えた庭園が数多く造られていたことが分かる。そればかりではなく、本作に描きこまれた花木は将軍や公家、禅寺の庭園で愛でられたものと共通することが記録から読み取れるのである。室町期は歴代将軍が作庭に力を入れただけでなく、公家の邸宅や寺院でも盛んに庭が作られ、花木が植えられたという(注15)。将軍の住居や山荘、寺社・公家の邸宅の庭に植えられた花木、及び作庭に関する記録は、『看聞日記』、『蔭涼軒日録』、『実隆公記』『碧山日録』などに頻繁に登場する(注16)。梅や松などの花木は勿論、柘榴や梨といった果樹もまた庭に植えられ、花は愛でられ実は収穫されていたという。例えば、『碧山日録』によって、東福寺内霊雲院の庭に植えられた様々な植物を知ることが出来る。『碧山日録』寛正元年(1460)の八月二十三日条には、「遊後園拾梨実、且愛稚松之長」とあり、また寛正二年(1461)三月九日条には、「庭前山石榴盛開」とある。霊雲院の家屋の背後には梅や梨が植えられ、前庭は築山が設けられた庭園で、柘榴が栽培されていたことが分かる。また『蔭涼軒日録』に、蔭涼軒の植栽の記事を探してみると、松と梅が頻出するほか、海棠・柘榴・長春花といった本作に見られる植物も登場する。ことに海棠は、しばしば献じたり下賜されたり、或いは寺院より贈られたりする贈答用の花木であったことが読み取れる点は興味深い(注17)。また贈られた海棠は詩に詠まれることもあった。ちなみに長享二年(1488)の十月十八日条に「壁有軸畫海棠也」という文言も見出される。『大乗院寺社雑事記』にも長春花や白梅、海棠、梨、芙蓉などの花木の名前を見ることができる。また『尺素往来』には前栽の植物として木瓜や銀木犀の名前も挙げられている。椿は日本原産ではあるものの、中国にかなり早い時期にわたって中国で種々に改良されたものが、室町期には日本に輸入され、京都を中心に椿の改良が流行した(注18)。これらの記録から伺えるのは、本作品に描かれたモチーフが、邸宅や寺院の庭で実際に目にすることのできる花木であり、よってこの作品に展開する景が、現実の景とは無縁の「漢画的形象素材の羅列」とは言い切れない、ということである。さらには『碧山日録』には、細川勝元邸の庭の有り様が「前面池水濃湛、鳬雁飛翔、亀魚遊泳、白鶺鴒、碧鸚鵡之属、畜之金籠」と記され、庭園に鳥や魚が放たれており、また珍しい鶺鴒や鸚鵡が籠に入れられて飼われていたことが分かる。また、『蔭涼軒日録』には、庭に配された奇石についても言及があり、本作品に見られる景が、そのままではないにせよ、ある程度実際の庭園の景と通じ合うものであったことが推測されるのである。もちろん、宮島氏

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