注村田珠光が古市播磨に与えた文の中に見られる一節。「和漢之さかいをまきらかす事、肝 『美術史』78号 1970年■『國華』935/936号 1971年、以下中島氏の論は注記のない限りこの論考より引く。■『MUSEUM』402号 1984年■前掲注■宮島論文■高岸輝『室町王権と絵画 初期土佐派研究』京都大学学術出版会 2004年■前掲注■中島論文、前掲注■宮島論文、辻惟雄「四季花木図屏風」『國華』1080号 1985年、河合正朝「室町時代の絵画における花鳥画の変容―中国画の受容とやまと絵花鳥図―」『伝統―213―要がある。更に15・16世紀の障屏画においては、本作と同じように画面に大きく雲霞が配される場合、雲霞はモチーフの手前に置かれて、画面に前後関係の集積としての奥行きを構成することが多い。しかし、本作は全ての雲霞がモチーフの背後にまわっており、画面空間の奥行きに関与することなく、それどころか支持体にぺたりとはりついて遠景を遮断するかのようである。先に述べたように本作を眼前の庭園の景と舶載された小幅の花鳥画とのアンソロジーであると捉えるなら、この雲霞表現は、遠景を遮断して庭園という近景のみを描き出すために選択されたものであり、さらには、小幅の花鳥画の羅列であるがゆえに、ともすればばらばらになってしまう関係性の薄いモチーフ同士を同一画面上に結びつける、背景としての役割を担っていると考えることができるだろう。まとめ本報告では、本作が実際に営まれていた室町後期の庭園の景を反映したものである可能性を指摘し、更には、やまと絵的な文様表現とのみ考えられてきた本作の水流の描法により現実的な描写を指摘することができた。さらに雲霞表現については、モチーフを結びつける背景としての役割を指摘した。以上のように考えた時、本作は単に中国絵画の影響の下に、漢画的な素材をやまと絵的な地平の上にちりばめた花鳥画、という位置づけに終わらせるべきではないことが指摘できるだろう。本作に見られる「漢画的な」花鳥モチーフ、「やまと絵的な」水紋・雲霞表現は、それぞれ、眼前の庭園の景と舶載された花鳥画を組み合わせるという、本作に固有な成立事情によって選択されたものであった可能性が指摘できるのである。和漢混淆の具体的な有り様は、これまで考えられてきたよりも、より複雑であり、今後の更なる具体的な検討が必要とされる。要々々、ようしんあるへき事也」
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