―13―となり、美術界はその是非をめぐって大きな混乱に陥る。一連の騒動が沈静化する新文展発足(1937年)までの経緯については『日展史』に纏まった記述があるので割愛するが(注3)、この帝展改組は「構造社」にも多大な影響を及ぼした。官展に参加するか否かで彫刻部と絵画部で意見が分かれ、両者の対立が団体分裂を招いたのである(注4)。帝展改組に際して、齋藤素厳はそれまで批判の対象としてきた官展の閉鎖性が、官野を統合した一大総合展の開催により改善される可能性が少なくないとして帝国美術院会員を受諾した(注5)。反官展の立場から興された同会だっただけに、素厳の官展復帰は団体内部に波紋を呼んだ。特に絵画部の反発は大きく団体解散さえ主張する事態に、彫刻部は6月27日絵画部解消を宣言する。これを不服とする絵画部は7月1日に絵画部解消決議拒絶書を発表するが、独自に活動する考えで一致していたためこの拒絶書をもって団体の分裂は決定的なものとなった。彫刻団体として再出発した「構造社」には22名が名を連ねた。組織の中軸を担ったのは素厳のほか、濱田三郎、陽咸二、荻島安二、中野五一、野村公雄、安永良徳、後藤清一、後藤泰彦、寺畑助之丞、河村目呂二などである。なお、絵画部は昭和11年(1936)寺畑助之丞率いる彫刻団体十七会と合流して新構造社を結成した(注6)。昭和10年(1935)9月1日から同月19日まで東京府美術館で開催された第9回展は彫刻団体として再出発した「構造社」のいわば旗揚げ展であり(注7)、官展と協調しつつも芸術上の主張に変わりのない確固たる姿勢を明示する重要な機会であった。同展の中心を成したのは「公園装飾試作」と題した課題制作の発表であった。その成果は、濱田三郎《装飾塔》、河村龍興(目呂二)《噴水》、齋藤素厳《小児公園の装飾》、後藤清一《拡声塔》、寺畑助之丞《馬に乗る子供の塔》、安永良徳《征空記念碑》の6点である。写真〔図1〕は当時としては珍しい抽象彫刻とも呼べる斬新な造形で人目をひいた安永の試作である。これらに合わせて、建設計画の進んでいた素厳の《大楠公像》の試作〔図2〕が会場を活気づけた。こうした大作の一方、スポーツ・メダルや燭台、灰皿、装身具などの小品が並び、日常生活との関わりを積極的に求めている様子が窺われる。加えて、商業美術家として活動していた荻島安二《作品A》〔図3〕や村井次郎《指輪》などの出品があり、新しい傾向に対して寛容な団体の立場を明らかにしている。美術の一分野としての商業美術の確立に同会が深く関わっていた状況については拙稿で言及したが(注8)、国産洋マネキンの開発に尽力した荻島安二(1895〜1939)などの商業美術家の活躍は、帝展改組前後の構造社展の大きな特色として注目を集めた。
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