鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―221―Mappamundi」であったとも、シエナ共和国の領土を描いた地域図であったともされる(注15)。「評議会の間」の装飾事業に関する詳しい経緯は分かっていない。だが、それらのとりわけ線遠近法や大気遠近法の技術を欠く場合、空間における広がりを描くためには、上からの視点を用いなければならない。古代ローマ絵画はしばしば高みからパノラミックな風景を描いた。しかし、中世の美術は空間のイリュージョンをことさら必要としなかったし、人間像主体の絵画にあって、上からの視線は一画面に多数の人物や出来事を収めるために採用されるか、あるいは建築等の副次モティーフに部分的・断片的なかたちで使われたに過ぎない。市壁に囲まれた都市建築は、古代ローマ以来の俯瞰的表現を伝統的に継承した例外的モティーフであったものの、その視点は画面全体にはほとんど及ばなかった(注11)。2.風景表現と地図:都市空間のイメージ化どのような契機が、ドゥッチョ等シエナの画家たちを都市の俯瞰的景観に向かわせたのであろうか。シエナにおける風景表現誕生の主たる背景として指摘されるのは、都市政府からの一連の注文制作である(注12)。シエナ市庁舎では、アンブロジオによる「ノーヴェの間」の景観図に先立ち、1310年代頃から1340年代にかけて、隣接する「評議会の間」に、シエナに服属した城砦の図や世界図の描かれたことが知られている(注13)。シモーネ・マルティーニに帰属されるフレスコ、《グイドリッチョ・ダ・フォリアーノ騎馬像》〔図6〕はそのひとつである。軍事隊長グイドリッチョ像の左背後にそびえるのは、1328年、シエナが攻略したモンテマッシの城郭集落とされる。1980年には、本図のすぐ下から、二人の人物像と共に別の城砦図も発見され、ジュンカリコやアルチドッソ等の集落と関係づけられている(注14)。1345年には、アンブロジオによる《世界図》が同じ壁面に据えられた。その回転式の円形地図は現在失われているが、キリスト教的歴史観・地理観を表した世界図、いわゆる「マッパムンディ景観図や地図は、「ノーヴェの間」の《善政と悪政の寓意とその効果》のごときイデオロギー上の機能と同時に、実用的機能も併せ持ったイメージとして制作されたと考えられる。M. ザイデルの推測によれば、城砦図は一種の法的証書のような役目を果たし、所有権の証として文字文書と相補関係にあった(注16)。U. フェルジェス−へニングは、個々の対象の描き分けが要求されるこうした注文制作こそが、画家の現実観察を促し、地誌的風景表現の発展をもたらしたと述べている(注17)。

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