―222―〔図7〕を描いている。それは、いくつかの不定形の陸地とその周囲を囲む大洋、お〔図2〕とも、部分的に重ねることができるだろう。自然の観察はトポグラフィカルな景観描写の要件であり、自然研究への道を開いたことは、風景表現の前提となる空間のイリュージョンを回復したことと共に、1300年代トスカナ絵画の功績として評価される(注18)。ジョット等フィレンツェ派に比べ、シエナ派の細部に対する写実的関心は特に顕著であり、ドゥッチョの「山頂での誘惑」の都市描写に見るように、それは古いモティーフを活気づけ、慣習的表現を改める原動力となった。しかしながら、個々の写実の集まりが自動的に風景となるわけではない。本稿で注目したいのは、各々の要素を含む空間全体を展望的に捉える態度である。「評議会の間」を飾った《世界図》の実態は定かでないものの、シエナ市庁舎には、アンブロジオの地図を反映したと考えられる作品が複数伝存する。例えば、1400年前半、タッデオ・ディ・バルトロが擬人像《正義》のアトリビュートに円形の世界図よび陸の間を縦横に走る水路からなり、陸地の上には大小の都市建築のシルエットが認められる。このような水陸の地理構成、また、都市の集合としての世界像は、中世の「マッパムンディ」の一形式に近い(注19)。タッデオ・ディ・バルトロの図式的な表現は、イシドルスの『語源論』の写本に付された11−12世紀の地図〔図8〕等と比較できる。そうした世界図の基本的イメージは、小島のごとき丘の合間に川が流れ、いくつもの城や建物が小さくそびえる「善政の効果」の景観〔図1〕とも、さらにまた、山川の間に遍在する都市をとらえたドゥッチョの「世のすべての国々」の描写西欧中世の地図とその利用に関しては、伝存例も乏しく、いまだ解明されていない部分が多い。世界図は時代を通じて制作されたようであるが、より縮尺の大きい地域図や海図といった他のタイプの多くは、14−15世紀になって現れる(注20)。中世には、「地図」に相当する一定の用語もなく、おそらくは、あまり作られも使われもしなかったと考えられている。そうした状況の中、イタリアはヨーロッパの他の地域に比べ地図に対する意識が高く、中世末期の都市国家にはいくつかの事例が知られている。それらは特に北イタリアに集中しているが、中部のシエナやその周辺にも確認できる。共和国の運営にあたり、絵画イメージを積極的に活用したシエナが、都市建設と領土拡張を進めてゆく中、空間の視覚的再現としての地図にも有用性を見出していた可能性は高い。世界図の例が示すごとく、画家たちも地図のイメージと近しい関係にあったことが推測される。シエナでは、アンブロジオの《世界図》の他、小さな領域を
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