鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―225―3.シエナにおける風景表現の誕生地図の活用はシエナに限った話ではない。例えば、1300年代中頃のフィレンツェにも、測量をもとに制作されたと考えられる市街地図の事例がある(注26)。それにも関わらず、なぜ、特にシエナにおいて風景表現が発達したのであろうか。フェルジェス−ヘニングが指摘する通り、それはシエナ派特有の造形様式に起因している。シエナ絵画には、地図的な見方を受け入れやすい土壌が存在したのである(注27)。とりわけドゥッチョに明らかなように、シエナ派は、1200年代の「ギリシア様式maniera greca」から装飾的な平面デザインへの嗜好を継承した。ドゥッチョの人物像はジョット〔図5〕と異なり、彫塑性をその本質としない。人体はドレーパリーの波立ちによって知られる薄い肉体を持つに過ぎず、物語の登場人物たちは、自らの個体性を主張するよりも、画面を賑わす一塊の集団として登場する〔図12〕。線と面とによって形作られたドゥッチョのしなやかな人物像に、画平面と垂直に設けた平らな土台は必ずしも必要ない。《マエスタ》の物語場面は、原則的には「舞台空間」のコンポジションに従ったものの、地面は傾斜してその表面を広く見せる傾向にあった。画面を下から上に上昇してゆくそうした構図法は、ドゥッチョの保守的性格を示すものでもあるが、その保守性が俯瞰的な空間表現を可能にしたのである。ジョットが舞台の奥行きを画面枠内の閉じた空間に限定して、人物像に確固たる位置づけを与え、その他の一切を主人公の行為に従属させたのに対し、ドゥッチョの画面は緊張感を欠く代わり、視線の自由な動きを刺激する。「山頂での誘惑」場面〔図2〕でも、観者はしだいに暗く小さくなる都市の姿を追い、岩山の間に見え隠れする川や道をたどりながら、主人公の背後に広がる空間に目をさまよわせる。シエナにおいてまず先に、さまよう視線の対象となったのは、都市の景観である。アンブロジオの「善政の効果」〔図1〕に見るように、都市を見下ろす視線は、しばしば土地所有や領地支配等、権力の論理と結びついていた。しかし、1300年代の都市社会にあって、その視線には同時に美的関心も働いていた。都市の景観が風景となりえたのは、そこに称賛すべき多くのものが存在したからである。イタリアでは中世を通じ、美的感情の大部分は市壁の外に広がる田園や森林よりも、都市へのまなざし、都市のイメージの中で形成された(注28)。都市の卓越性は天上のエルサレム、あるいは古代ローマをモデルとした宗教的・精神的美徳と関連づけられていたが、中世末期になり、人々の視線は町の世俗的・現実的外観にも向かい始める。当時のシエナの条例には、道路や建物の美観に関する規定が散見され、条文では都市景観の秩序と統一性の必要が謳われている(注29)。《マエスタ》の「山頂

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