鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
236/499

■G. Pochat, Figur und Landschaft:Eine historische Interpretation der Landschaftsmalerei von der Antike■W. Kallab, “Die toskanische Landschaftsmalerei im XIV. und XV. Jahrhundert: Ihre Entstehung undEntwicklung”, Jahrbuch des kunsthistorischen Sammlungen des Allerhöchsten Kaiserhauses, XXI, 1900,pp.1−90.■O. Pächt, “Early Italian Nature Studies and the Early Calendar Landscape”, Journal of the Warburg andCourtauld Institutes, XIII, 1950, pp. 13−47; D. Pearsall/E. Salter, Landscapes and Seasons of theMedieval World, London, 1973.注「ノーヴェ(九人執政官)の間Sala del Nove」、および後述の「評議会の間Sala del Consiglio」は当時の名称。現在は、各々、「平和の間Sala della Pace」、「世界図の間Sala del Mappamondo」と呼ばれる。 《マエスタ》は、シエナ大聖堂の主祭壇のために制作された祭壇画である。かつては、玉座の聖母子・天使・諸聖人像と60場面近くのキリスト伝・マリア伝場面から構成されたモニュメンタルな板絵であったが、18世紀後半に解体された。現在は、シエナ大聖堂付属美術館の他、欧米各地の美術館に分散している。―226―bis zur Renaissance, Berlin/New York, 1973.での誘惑」は、そうしたメンタリティーのなによりの証拠となるだろう。先述のように、従来の図像と異なり、ドゥッチョの誘惑図において世のすべての国々の繁栄ぶりを表すのは、もはや財宝ではなく都市自体の外観である。灰色のはげた岩山とは対照的に、都市建築はとりどりの色彩と入念な細部描写によって華やかに装飾されている。地面にのぞくレンガの舗装路も、1300年代のトスカナ諸都市の美観を構成するのに欠かせない要素であった(注30)。ドゥッチョが人物像を取り巻く環境へと目を向け、「舞台空間」の閉じた構図を克服するきっかけとなったのが、都市の景観であったことは、《マエスタ》の「キリストのエルサレム入城」場面〔図12〕からも裏付けられるだろう。入城図では、エルサレムの町が三重の壁に囲まれた中世都市に置き換えられ、画面奥へと遠ざかる市街の空間が俯瞰的構図の内に捉えられている。ドゥッチョの「山頂での誘惑」場面が、また、アンブロジオの「善政の効果」の景観図が、市壁の外の広がりを描く場合でも、その基点となったのは都市であった。中世末期のシエナにおいて、都市は美的評価の対象であると同時に、町の内外に展開するとらえどころのない空間を検証し視覚化するための手段を、地図というかたちで構築しつつあった。ドゥッチョ等シエナの画家たちは、都市に対するそうしたまなざしを絵画に取り込むことで、古い図式を改め、風景のイリュージョンを創造しようとしたのではないだろうか。

元のページ  ../index.html#236

このブックを見る