鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―14―こうした同展に対する評価は概して好意的であった。大蔵雄夫はこう述べている。「従来の主張するところは主張し、特色とするところを特色として、益々これを強調せんとするかに思はれる。構造社展でなければ見られないモニユーメンタルへの志向の作品、マネキンの如き商業美術、また新帝展への予備校的な作品もあつて、ジヤナリストに呼び掛けてゐる」(注9)。彫刻の社会性に光を当てる同展の様相は、彫刻団体としての順調な活動ぶりを印象づけると同時に、官展参加により同会が看板を塗り替えたとする風評を退けるものでもあったと言えよう。ところで、ここで注目したいのは大蔵が同会の特色として第一に「モニユーメンタルへの志向の作品」を挙げている点である。公園や広場の中心となるモニュメンタルな彫刻の制作は結成当初から重要視され、前期の活動期間に行われた大規模な共同制作「綜合試作」ないし「綜合作」は構造社展の呼び物となっていたが(注10)、帝展改組前後はこうした従来の研究成果が実った時期であった。以下ではその具体例として素厳が手がけたモニュメントについて考察する。2、モニュメントの展開―齋藤素厳《丹那トンネル殉職記念碑》―昭和10年前後に齋藤素厳が請け負ったモニュメントには《丹那トンネル殉職記念碑》(1934年)や《大楠公像》(1935年)、靖国神社大燈篭の浮彫装飾(1935年)、《高橋是清像》(1940〜41年)などがある。《高橋是清像》は戦時下の金属供出により撤去され戦後に再建されたが、それ以外の作品は建設当初のままのかたちで現存する。本論では建築と彫刻の関係を探求した団体活動との関連から《丹那トンネル殉職記念碑》〔図4〕を取り上げる。現在のJR東海道本線の熱海駅と函南駅の間を結ぶ全長7,808メートルの丹那トンネルは、建設当時国内最長の規模を誇り、採掘工事の着手(1918年)から完成に至るまで16年の歳月を要した(注11)。鉄道史上最大の難工事と言われるだけに、関東大震災や北伊豆地震などの天災を含めて幾度もの事故に見舞われた結果、殉職者は67名を数えた。その霊を祀る殉職碑の建立に際して、鉄道院より依頼を受けたのが齋藤素厳であった。東口坑門の上に建設された《丹那トンネル殉職記念碑》は、コの字型の形状から成る建造物で、人物像によらない建築的な構成を特徴とする。正面の壁面には、素厳が

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