鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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81600年前後のトレドにおけるエル・グレコ―232―研 究 者:東北大学大学院 文学研究科 博士課程後期  門 田   彩はじめに画家エル・グレコが、1576年あるいは1577年にイタリアからスペインへ移住した理由については様々な要因があげられるが、その直接的要因はトレドのサント・ドミンゴ・エル・アンティーグオ教会の祭壇装飾を、当時のトレド大聖堂参事会会長であったディエゴ・デ・カスティーリャに委託されたためであったといわれている。ディエゴの息子ルイス・デ・カスティーリャとローマで交友があったエル・グレコは、おそらくはルイスを介してこの委託を受け、スペインへの移住を決めた(注1)。その後、ディエゴのとりなしもあってトレド大聖堂やスペイン王室からの委託を順調に得ていたエル・グレコだが、1579年には《聖衣剥奪》をめぐってトレド大聖堂との間に訴訟を起こし(注2)、さらに1582年には《聖マウリキウスの殉教》がスペイン国王フェリペ2世より正式に拒まれてしまう(注3)。この結果、画家はトレド大聖堂とスペイン国王という最大のパトロネージを失った。しかしそれでもなお、サント・ドミンゴ・エル・アンティーグオ教会の祭壇装飾の成功は、エル・グレコにトレドにおける確固たる名声をもたらし、この地での幾人ものパトロンの獲得を促した。トレドでの作品委託を着実に増やしていったエル・グレコは、1600年頃に成熟期を迎えた。トレド大聖堂とスペイン国王という二大パトロネージを失ったエル・グレコであったが、パトロンそのものを失うことはなく、その多くが、彼がスペインへ移住するきっかけを作ったディエゴのような大学関係者や聖職者であった。そして、作品の査定額は他の画家より高く、エル・グレコがトレドで一定以上の評価を得ていたことがわかる。これはひとえにエル・グレコの作品が優れていたという理由だけではない。画家が、当時のトレドを取り巻く環境の範囲内から外れることなく活動していたことを意味する。よって本稿では、1600年頃のトレドにおいて、エル・グレコがどのような環境の下で活動を行っていたかを探るために、画家を取り巻く環境を考察する。それは、エル・グレコが市井の画家であった以上、当時の環境から逃れえることはできなかったと考えられるからである。具体的には、とくに重要なパトロンの一人であったペドロ・サラサール・デ・メンドーサとの関係から検討し、トレドにおける制作環境を探っていきたい。

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