鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―233―トレドにおけるパトロンエル・グレコはスペインへ渡ってからすぐに、トレド大聖堂から《聖衣剥奪》を委託された。この委託はトレド大司教ガスパール・デ・キローガ枢機卿によってなされたのだが、その仲介をしたのが、トレド大聖堂の神学教師であったアントニオ・デ・コバルビアスである(注4)。コバルビアス自身は、エル・グレコに大きな祭壇衝立の委託こそしてはいないが優れた肖像画を描かせている〔図1〕。そして、このコバルビアスは他の大学関係者をエル・グレコに紹介したという点で注目すべき人物であった。彼が紹介した大学関係者の中には、同じくエル・グレコに肖像画を描かせた医者ロドリゴ・デ・ラ・フエンテや〔図2〕(注5)、神学者のマルティン・ラミレス・デ・サジャスもいる。画家は、ラミレスと接触を持つことで、1597年にサン・ホセ礼拝堂の祭壇衝立を、1603年にはサン・ベルナルディーノ学院付属礼拝堂の祭壇衝立を制作する機会に恵まれた(注6)。しかし、エル・グレコにとって大学関係者より重要なパトロンだったのが教会である。《聖衣剥奪》に関する論争以降、大聖堂からのパトロネージを失ったエル・グレコであったが、個々の聖職者からは信用を得て委託を得ることができ、やがてはそれが画家のパトロネージの核となっていったからである。教会関係者、すなわち聖職者の中には、当時の大司教ガスパール・デ・キローガ枢機卿の閣僚のメンバーが3名も含まれていた。ペドロ・サラサール・デ・メンドーサ、ヘロニモ・デ・チリボガ、そしてロドリゴ・バスケス・デ・アルセである。バスケス・デ・アルセはエル・グレコに肖像画を描かせており(注7)、また、ヘロニモ・デ・チリボガは他のエル・グレコのパトロンたちと同じく、教会法を学びギリシア語、ラテン語、そしてリベラル・アーツに優れていた。1596年にマドリードのドーニャ・マリア・デ・アラゴン学院の祭壇衝立をエル・グレコに委託したのもチリボガであったのだ(注8)。しかし、エル・グレコにとってより肝要な役割を持った人物はサラサール・デ・メンドーサであった。メンドーサは、トレドの教会法学者で、郷土史家でもあり、当時最も重要な年代記者の一人である。また、トレドの城壁外にある通称タベーラ施療院の管財人であって、エル・グレコとの関係を述べる際には、まず最初に、この施療院付属の礼拝堂の祭壇装飾を委託した人物として名前があがる(注9)。確かに、タベーラ施療院におけるエル・グレコの仕事は、画家の最晩年に位置づけられる重要かつ卓越した仕事であり、メンドーサがこれを彼に委託したことの意味は非常に大きい。しかし、メンドーサが果たした役割はそれだけではなかった。エル・グレコの制作活

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