―236―はうかがえるが、著作には以下のように述べられている。「絵画は、伝統と歴史的記述に一致さえすれば、書物から得られることよりも強大な説得力をもつ。なぜなら、絵画は書物よりも精神を奮起し高揚させるからである。」(注20)メンドーサの著作はエル・グレコの死後に出版されたものだが、メンドーサがエル・グレコにほどこした金銭的援助など、両者の友好関係をみれば、出版以前に画家にその考えを話していた可能性は十分にある。つまり、メンドーサの考えを忠実に再現したものが《学者(あるいは枢機卿)としての聖ヒエロニムス》であるならば、同様に、《聖イルデフォンソ》制作にもメンドーサが関わっていたのではないかと推測しうるのである。ここで、カリダー礼拝堂の祭壇装飾の契約が行われた場所について明記しておこう。当時の作品委託は、トレド大聖堂に設置されたトレド大司教区管理会議が監督していた(注21)。まず、委託する側とされる側両者の合意のサインをこの会議に提出し是認を受けた後に、再度、双方が保証人をつけて再確認し、そのサインでもって最終的な締結が交わされたのである。特筆しておきたいのは、このカリダー礼拝堂の祭壇装飾の最終的な契約のサインがなされたのが、タベーラ施療院だったことである。タベーラ施療院は、当時メンドーサが管財人を務めていた施療院である。ここでカリダー礼拝堂の契約がなされたということは、カリダーの契約の前に、カリダー施療院とメンドーサとの間に何らかの関係があったためではないかと推測されるのだ。さらに、カリダーの契約時には、メンドーサが閣僚として従事していた大司教キローガはすでに交代し、ベルナルド・デ・サンドバル・イ・ロハス枢機卿が大司教となっていたが、このベルナルド枢機卿はキローガの計画に従い熱心に活動していたという記録が残っている(注22)。以上から、メンドーサがカリダー施療院の祭壇装飾に何らかの関わりをもっていたことが指摘できた。トレド以外の町イリェスカスの作品制作においても画家のトレドでのパトロンが大いに関与していたことがわかる。このことは、エル・グレコがいかにトレドと結びついて制作活動を行っていたかを示す証左となろう。ビセンテ・カルドゥーチョとの接点さらに、当時の政治的状況に目を向けてみると、カリダー契約時に大司教であったベルナルド枢機卿の甥フランシスコ・デ・サンドバル・イ・ロハスが当時の国王フェ
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