鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―237―リペ3世の宰相であった。彼は政治的手腕に欠いた国王に代わって執政し大きな政治権力を握っていたことが知られている(注23)。当時の宮廷画家はバルトロメー・カルドゥーチョであったが途中で死去し、その後は弟のビセンテ・カルドゥーチョがその後を継いでいた(注24)。カルドゥーチョ兄弟はフィレンツェから、エル・エスコリアル宮殿装飾のためにツッカロ工房にやってきて、そのままマドリードに住みついていた。当時、絵画や彫刻を金銭と同じ政治的収賄と捉えていたレルマ公爵の考えを危惧した弟ビセンテは、1603年にマドリードにアカデミーを組織し、芸術家にあらゆる学問を学ばせようとした(注25)。この試みは失敗に終わるが、芸術家の地位向上を目指した彼の考えをまとめたのが『絵画問答』である(注26)。一方、トレドを訪れたツッカロからヴァザーリの『芸術家列伝』を手渡されたエル・グレコが、カルドゥーチョ兄弟に実際に接していなくとも、ツッカロ工房にいた彼らの存在を知っていた可能性は非常に高い。だとすれば、他の芸術家を「職人」扱いし、自らはより高い地位の「芸術家」であるというエル・グレコの考え方は、スペインにおける芸術家の地位の低さを憂い、イタリアのように芸術家の地位を向上させたいと願うカルドゥーチョの考え方と根底では通じており、当時の知識人たちの間ではそれほど突飛な考え方でなかったことがわかる。結びエル・グレコがトレドの知識人たちと関わっていたことはよく知られている。しかし、具体的にはどのような形で関わっていたのかについて、従来は各々の教会の個別研究にとどまっていたように思う。本稿では、注文の経緯が不明なままである《聖イルデフォンソ》を考察することにより、教会の垣根を飛び越え、トレドという環境の中で画家が制作活動を行っていたことをより具体的に浮かび上がらせ、画家の活動がトレドの町の中に結び付いている様子を明らかにした。メンドーサとの関係はその好例であった。また、エル・グレコとカルドゥーチョの考えの共通項を指摘したことは、エル・グレコがトレドの知識人たちと同じ思想の中で活動していたことを裏付けるものであったが、依然として指摘にとどまっているためさらなる考察の必要がある。以上を踏まえて、今後、さらにトレドの町の中でエル・グレコの活動について、また、彼の作品を享受していたトレドの文化的土壌について、他の芸術家との関わりからの考察も含め、より一層明らかにしていきたい。

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