鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―15―制作した労働者を題材とするブロンズ製の浮彫〔図5〕が設置されている。人物像やその背景は薄肉彫で仕上げられているのに対して、作品の周囲は荒削りのままの壁面で覆われており、採掘現場の表現に効果をもたらしている。基壇の左右に設置された対を成す球状の造形物は、「構造社」会員の野村公雄が担当し、水平性を強調する全体の構成に変化を与えている(注12)。これらを統合した建造物は全体の高さが抑えられており、背後に広がる眺望を見渡せるよう工夫されている。建築と彫刻を統合した表現形式という点や、共同制作の採用に加え、坑門の上という設置場所の特性を活かした設計の巧みさなどに、モニュメントの研究に取り組んできた「構造社」の活動の経験が活かされている印象を受ける。帝展改組以後の同会では、モニュメントの制作は団体の課題というより個人の関心に委ねられていく傾向にあった。ただし、自らの芸術観を表明する場としてその制作に熱意を傾けた素厳は、建築と彫刻を統合した表現形式を開拓することに関心を持ち続けた。例えば、《高橋是清像》(1940〜1941年)の制作に際しては建築的な台座を伴う試作〔図6〕の存在が確認されている(注13)。しかしながら、この提案は依頼主の意向もあってか具体化することはなく、最終的には洋装で腰かけに寛ぐ高橋是清の座像〔図7〕が設置された。なお、現存作品は和装の座像だが戦後の再制作については篠崎未来氏の研究に詳しい(注14)。この《高橋是清像》の事例を踏まえれば、作家の芸術意欲と依頼主の意向が合致した《丹那トンネル殉職記念碑》は素厳の代表作であると同時に、総合的な造形活動を目指した「構造社」の理念が実現した貴重な作例と言える。また、昭和戦前期彫刻におけるモニュメントの多様な展開を示唆するものとしても興味深い。3、戦時下における模索―セメント彫刻の展開―建築資材であったセメントが彫刻制作に活用されはじめた時期は特定し得ないものの、《日本工業倶楽部会館》(1920年竣工)の装飾として小倉右一郎が手がけた立像が像本体の素材として使われた最初期の作例とされる(注15)。同作のようにセメントに砂や砂利、水を調合した彫刻制作は「コンクリート彫刻」という呼称が妥当かと思われるが、本論では歴史的呼称を尊重し「セメント彫刻」と表記する。大正期から普及しはじめたセメント彫刻が、彫刻界の表舞台に登場したのは戦時下の彫刻資材不足を背景としている。その関心の高まりは日本ポルトランドセメント同業会による雑誌『セメント工芸』(1937年1月創刊)の刊行をはじめ、東京美術学校における臨時セメント教室の設置(1939年)などに窺われるが、セメントの利用を促

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