鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―242―「移動美術」を派生させた。移動美術は、「同盟員が労働者農民諸君の演説会や懇談会日本プロレタリア文芸連盟美術部は、プロレタリア文化運動の補佐として漫画やポスターを描くことから活動をスタートさせていたが、文化団体の離合集散にともない昭和3年(1928)3月にARとして再組織された。同年5月には、メーデーを祝うプロレタリア芸術祭の催しの一つとして、新宿紀伊國屋書店、大島町の大島共働社、小石川の東京共働社を会場に初めて移動展覧会を開催し、文化運動の補佐にとどまらないプロレタリア美術団体の主体的な活動を展開し、活況を呈することとなった(注3)。移動展覧会とは、テーマにもとづき作品を制作し、「プロレタリアートの生活の内に美術を持ち込」む(注4)、小規模な巡回展のことである。この方法は彼らの全くの独創ではなく、初期社会主義運動時に荒畑寒村らがおこなった社会主義書籍の販売や演説会、社会主義協会員の募集といった活動を主とする社会主義伝道行商のかたちを引き継いだものとみることができる(注5)。以後、この移動展覧会は、ARのみならず、昭和4年(1929)4月に造型美術家協会と合同して結成された日本プロレタリア美術家同盟においても継続され主要な活動として各所で開催されている。移動展覧会の様子を、AR所属の須山計一、松山文雄がおこなった青森県移動展からうかがってみよう。この移動展は、昭和3年8月22、23日に黒石町の公会堂、25、26日に青森市の赤十字社支部で開催された。会場では、ポスターを中心とした小作品を展示し〔図1、2〕、会場中央では、漫画似顔市場と称する即興の似顔絵販売をおこない、あわせて無産者新聞の販売もおこなった。また、入場者から絵の解説を求められるに応じて、絵解きをはじめ、「移動展の作品の不十分さを明快な説明でおぎな」い(注6)、演説のように観客を魅了したという。作品の展示に留まらず、即興やパフォーマンスを加味することで、入場者により積極的に働きかけていく。こうした性格を備えていた移動展は、さらに即興性に富んだ等に出かけて行つて色々な面白い絵―例へば「首切反対」だとか「農民組合に入れ」だとか[中略]労働者農民の平常の希望や要求を現はした絵―を即席に描」く(注7)活動であった。この活動では、他のプロレタリア文化団体、特に演劇や音楽と結びつき、領域横断的に展開することとなった(注8)。こうした活動は、政治思想のアジテーション・プロパガンダに留まらず、文化運動の資金獲得に効力を発揮し、さらには中央と地方の交流を促進させ、結果として地方へとプロレタリア美術が伸張する足がかりになったようだ(注9)。

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