―243―2.地方支部日本プロレタリア美術家同盟は、最盛期には、東京、大阪、京都、仙台、新潟、神戸、札幌、甲府に支部を構え、小樽、名古屋、広島、八幡、福岡に支部設立の準備会を設けていた。一部の支部については、官憲資料により昭和7年(1932)末時点の所属人数も明らかになっている。東京支部の80名を筆頭に、10名以上を数える所属者を抱えていた支部(含支部準備会)は、大阪、京都、札幌、小樽、名古屋の5ヶ所に及んでいる(注10)。これら地方支部に所属する画家は、年に一度開催されたプロレタリア美術展覧会へ作品を出品し、中央からの移動展の支援をしていた。しかし、所属人員の少ない多くの支部では、中央主導の活動の他、独自の活動はほとんど見られなかった。その中にあって大阪、京都、札幌は地方支部としての単独の活動を有していた(注11)。プロレタリア美術運動の地方への伸張の一例として、ここでは大阪の活動をみてみることとしよう。大阪支部は、日本プロレタリア美術家同盟結成後まもなくの昭和4年(1929)7月に創立された(注12)。中心となったのは、新興美術運動時代から矢部友衛や岡本唐貴と行動をともにしていた浅野孟府である。浅野は信濃橋洋画研究所などから同盟員を募集し(注13)、恵美須町に美術研究所を設立、ここを基点に活動をおこなった。研究所では、週に1、2回、女性モデルや他のプロレタリア文化運動員をやとって素描をおこなうだけでなく(注14)、東京から講師を招いて絵画講習会を開くこともあった(注15)。また、研究所は、出版印刷所としても機能しており、ポスターやカット集が発行された(注16)。大阪では東京と同様、他の文化運動と協力することで、幅広い分野での活動を展開している。機関誌への表紙絵やカット類の提供は、彼らの主要な活動の一つであり、プロレタリア作家同盟大阪支部機関誌『大阪ノ旗』創刊号の表紙は、浅野孟府によって描かれたようだ。この創刊号は未見であるが、帝国主義戦争反対のテーマを扱い、戦艦の砲塔にブルジョワジーの顔を配した絵であったという(注17)。確認することができた続刊の『大阪ノ旗』表紙絵やカットも、大阪支部の画家が提供したものであろう〔図3〕。また、彼らは「絵を入れた詩ビラを目標工場へ流し込む」(注18)などの典型的なアジテーションの計画にも積極的に関与していた。その他、特に技量のある浅野はプロレタリア演劇に協力し、舞台美術を担い、人形劇の人形制作も手がけている(注19)。
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