鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―245―槐樹社の画家たちは、労働者の日常風景を絵画化したのに対し、日本プロレタリア美術家同盟では、ストライキや労働争議といった社会問題をあつかっている。また、日本プロレタリア美術家同盟東京支部では、矢部友衛により「暗いものを否定して、明るさ、健康さ、逞しさを肯定」(注26)して描く指導が行われていた。プロレタリア美術展覧会に出品された作品の多くは現存しないが、当時出版された絵葉書から描かれた作品が全体的に明るい色調を帯びていたことがわかる〔図7〕。両者の絵画の違いは、色彩上にもあらわれている。とはいえ、堀田清治は、第2回プロレタリア美術展に対し「未だ充分なる驚異を以てヨシ既成画壇に肉迫し得ないとしてもコノ展覧会は対画壇的に対社会的に又時代的に重大なる意義と役割を有する画期的な者である」(注27)と書く。橋本八百二も、日本プロレタリア美術家同盟と同様「プロレタリア的階級闘争の時代」(注28)のなかに自らの仕事を位置づけようとしており、彼らが日本プロレタリア美術家同盟の動向を注視していたことは疑いなかろう。ただし、福田新生が「意識的にか或ひは無意識的にかその政治的立場を明らかにしない」(注29)と指摘するとおり、槐樹社に労働者を出品する彼らの多くは政治上の問題としてではなく、あくまで芸術的な観点から作品を制作していた。このなかにあって福田は独自の進展をみせたことで注目される。彼は労農芸術家連盟に所属していた。この組織は、日本プロレタリア美術家同盟の上部組織であるプロレタリア文化組織が、政治上の主張から分離したものである。昭和2年(1927)9月頃、福田の兄鶴田和也は郷里の九州から上京後すぐに、同郷の葉山嘉樹に導かれ労農芸術家連盟に参加した(注30)。福田は、この兄の影響から労農芸術家連盟に出入りすることになったと考えられる。彼は労農芸術家連盟の美術部に所属し、団体の機関誌『文芸戦線』の表紙や挿絵・カット〔図8〕に腕を揮っていた。表紙絵やカットに描かれるテーマは、日本プロレタリア美術家同盟の描くものと大きな違いはない。しかし、この美術部には5名程度しか所属しておらず、おのずと運動方法に違いが生まれている。労農芸術家連盟美術部では、独自の展覧会を組織することはなく、作品の発表機関を持たなかった。また、日本プロレタリア美術家同盟が盛んにおこなった移動展なども開催する力がなく、「スケッチ踏査」という絵入りのルポルタージュによって地方への関心を示していた〔図9〕(注31)。福田はこのようにプロレタリア美術運動の一支流である団体で活動する一方で、槐樹社や帝展に作品を出品していたのである。

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