鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―246―こうした人員を擁する槐樹社自体にも目を向ける必要があろう。小林未央子が指摘するとおり(注32)、槐樹社は、美術の大衆化を一つの目的として掲げていた。また、槐樹社同人が編集に携わった『美術新論』は「美術も亦人類文化に資する一要素である以上、其の進歩発達も時代から孤立する者ではない。大勢に順応した、時代の美術建設に努力する事は我々の任務だ」(注33)という認識をもっており、美術と大衆の問題をいちはやく特集し、長谷川如是閑や辻潤など、当時の思想家、文筆家、社会研究家などに寄稿を仰いでいる(注34)。また社会主義美術に関する目配りもあり、「レニン[レーニン]と芸術」(注35)という記事を掲載することもあった。堀田清治等もこの誌面上で自らのプロレタリア美術理論を展開しており、こうした土壌に、プロレタリア美術運動の影響著しい作家が育まれていったのである。おわりにプロレタリア美術運動に参入した画家は、社会問題をテーマとして作品を描き、これを積極的にイデオロギーの宣伝活動に利用した。こうした活動によって運動は東京だけではなく地方にまで賛同者を得ることとなる。また、他の文化運動と連帯し、これまでの美術の枠組におさまらない領域横断的な活動を繰り広げた。これらの活動を展開する背景には、社会のなかで美術はいかにあるべきかという問題意識があった。これは、プロレタリア美術運動のみならず当時の美術界に共有された問題でもある。特に槐樹社に多く在籍するこうした意識をもつ画家は、社会運動に密着するというかたちで問題に対する一つの答えを提示したプロレタリア美術の行く末を見守り、みずからの芸術に取り込んでいったのである。石井柏亭は『日本絵画三代志』の中で、プロレタリア美術運動に参加した画家の執筆当時における動向にも触れている。「其等の系統の作家たちは今大抵転向して真面目な写実家に出直した」(注36)と書くとおり、昭和9年(1934)の日本プロレタリア美術家同盟解散後、運動に参加した多くの画家たちは、社会運動から離れ、デッサンなどの基礎技術の習練に立ち戻っている。こうしたなかで彼らから戦争画に携わるようになるものもあらわれた。彼らのこの転身は、思想上においてはまるで一貫性がないように思える。しかし、戦争画もプロレタリア美術と同様、社会の中で美術はいかにあるべきかという問題から生まれた側面があり、両者の距離は見た目よりも離れていないように思える。こうした日本プロレタリア美術家同盟解散後の動向については、今後あらためて検討したい。

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