「プロレタリア美術運動の回顧ー五 永田一脩にきく」『美術運動』第104号、1977年2月、76注石井柏亭『日本絵画三代志』創元社、1942年、239頁。なお、引用文中の旧字体は適宜新字体■「第一回美術展覧会開かる」『日本社会運動通信』第2号、1928年5月24日。この記事には移動展の出品目録の一部と撤回作品の一部タイトルが記載されている。なお、出品点数は90余数点、撤回作品数は20点であった。■永田一脩「プロレタリア美術展移動展覧会並に造型のプチブル性を排撃する」『戦旗』第1巻■荒畑寒村編『社会主義伝道行商日記』新泉社、1971年。■須山計一「移動美術展記―青森地方」『戦旗』第7号、1928年11月、124頁。■「PPの移動活動各地で大喝采」『美術新聞』第1号、1931年12月、2頁(青山毅編『昭和期文■「小野沢亘氏にきく―その2 ききて箕田源二郎」『美術運動』第108号、1978年5月、68頁。1930年の夏期に新潟地方で開催された移動展の自己評価として「この移動展によつて、新潟地方にプロレタリア美術は、相当深い根をおろした」とある(「日本プロレタリア美術家同盟第三回全国大会報告、方針書」『ナップ』第12巻6号、1931年6月、212頁)。『美術新聞』第1号、1931年12月、2頁(前掲書注■)。『復刻版 内務省警保局編社会運動の札幌のプロレタリア美術運動については、札幌支部の同盟員であった佐藤八郎による『ネヴオ『復刻版 内務省警保局編社会運動の状況4 昭和七年』(前掲書注)、542頁。羽根田久子「浅野孟府さんのこと」『煙』第50号、1987年2月、24頁。森元宗二「私の履歴書3」『煙』第30号、1977年4月、66頁。伯井芳「恵美須町のこと」『煙』「同盟員消息」『美術新聞』第4号、1932年2月、3頁(前掲書注■)。羽根田一郎「治安維持法との一平凡人のたたかいの記録」『羽根田一郎遺稿集』羽根田一郎遺児玉誠「追悼・浅野孟府」『煙』第50号、1987年2月、33頁。 「支部ニュース」『大阪ノ旗』第2巻第2号、1933年3月、33頁。■大岡欽治『関西新劇史』東方出版、1991年12月。高嘉男「関西における児童の人形劇運動」 「羽根田一郎略歴」『煙』第33号、1978年11月、92頁。■福田新生「槐樹社美術展のプロレタリヤ作家」『文芸戦線』第7巻第4号、90頁。■槐樹社については、小林未央子「槐樹社について」(監修青木茂、編纂東京文化財研究所『近代日本アート・カタログ・コレクション074一九三〇年協会/槐樹社』ゆまに書房、2004年)を参照した。■「座談槐樹社展」『美術新論』第4巻4号、1929年4月、103頁。■仲田定之助「青の部屋」『美術新論』第4巻4号、1929年4月、20頁。「帝展座談」『美術新論』第6巻第11号、1931年11月、22頁。―247―にあらためた。以下の引用でも同様である。頁。第3号、1928年7月、85頁。学・思想文献資料集成第二輯』(五月書房、1989年)所収)。状況4 昭和七年』三一書房、1971年、542−543頁。の記』(佐藤八郎、1976年3月)に詳しい。稿集刊行委員会、1979年、55頁。『人形芝居』第1巻第2号、1933年7月、51−52頁。第33号、1978年11月、49頁。
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