―16―〔図8〕。この建設計画に前後して、構造社展ではセメント彫刻が増加した。例えば、進する組織的な活動の活発化は彫刻表現に適応し得る素材の改良と技法の確立が急務の課題とされていたことをも示す。こうした状況下、セメント彫刻の発展に努めたのが「構造社」であった。彼らのセメント彫刻に対する取り組みは昭和初年にまで遡ることができ、前期の活動期間には東京株式取引所(現、東京証券取引所)の本館新築(1931年完成)に伴い齋藤素厳がコンクリート製の座像《商業》、《工業》、《農業》、《交通》を制作している雨田光平の《セルビアの女》〔図9〕は渡辺義知により「明確な立体意識が感じられる」と評価されており(注16)、同会の実践が萌芽的な段階にあったセメント彫刻の展開に一石を投じていたことがわかる。帝展改組以後の同会では若手作家による実践が目立った。例えば、井手則雄(1916〜1986)は東京美術学校に設置された臨時セメント教室の指導を担当した矢崎好幸の助手を務めた作家である。構造社展や個展(1940年)に出品したセメント彫刻には抽象的な造形表現〔図10〕がみられ、その素材のもつ多様な可能性を示唆している。また、創作活動の傍ら、直付法をはじめとする技法や、素材の配合を解説した論考を発表しセメント彫刻の振興に努めた(注17)。セメント彫刻に力を注いだ会員としては、ほかに浅野コンクリート専修学校で教鞭をとった柚月芳がいる。第13回展(1940年)に発表した《波》〔図11〕は装飾性に富んだ作風を得意とした構造社時代の代表作である。その素材であるアルトメンタはポルトランド系セメントの一種で、従来の製品に比べ油土に近い粘性があり、一度硬化すると堅牢なため彫刻の新素材として脚光を浴びていたが(注18)、その活用法を率先して研究したのが柚月であった。当時の柚月は庭園灯〔図12〕の制作を手がけるなど、研究成果を日常生活に結びつける多様な創作活動を展開したことでも注目される。こうした新素材の研究に情熱を注ぐ作家の実践を「構造社」が高く評価し、支援していた様子は第11回展(1938年)で清田清也のセメント彫刻《マントヒヒ》に研究賞を与えていることにも窺える(注19)。このように、セメント彫刻は戦時下を中心に広く普及する様相にあったが、その要因には構造社展の展開が示すように、彫刻資材の確保という側面とは別に、新たな造形性をもたらす素材としての価値が見出されていたからではないかと推察される。鋳造作品とは異なり他者の手を借りずに完成できる利点もセメント彫刻に対する関心を促すものであったろう。それは戦後に至ってもなおその取り組みが継続され、しばしば野外彫刻として活用されたことにも窺われる(注20)。
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