鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―253―への引導が求められたのだろう。さて、当代の薬師如来信仰において、比叡山延暦寺の根本中堂に安置された本尊薬師如来像は非常に重要な位置を占めた。この像は、最澄が比叡山中において虚空蔵尾の自倒木を刻んだ像という伝承によってよく知られている。この像から派生した薬師如来像はいわゆる天台系の薬師如来像として、制作背景に天台宗の存在が想定される(注5)。しかし、この天台系薬師如来像が、どのような宗教的な願いで制作されたかについては、それほど配慮されてこなかったように思われる。平安初期に制作された原像である根本中堂像が、後世においてどのように受け止められていたかを考察する必要があろう。平安時代中・後期における根本中堂像まず根本中堂が承平5年(935)の焼亡を経て(注6)、天元3年(980)に再興供養されていることに注目したい。この供養会に際し、天台座主良源は供養願文の中で根本中堂像を次のように述べている。良源敬白。根本大師之始闢此山也。攀翠嶺而結菴。踊蒼海而求法。愍堪忍世界之多苦。願薬師如来之垂慈。不倩巧手之人。自造等身之像。削一柿而堕涙。願六趣而祝恩。ここで、良源は根本中堂像について、「不倩巧手之人。自造等身之像。」すなわち仏師に頼らずに自ら等身の像を造ったという(注7)。この最澄自刻の像という宣言は、火災による比叡山の再建に多くの仏師(巧手之人)が投入された状況を踏まえて、本尊が創建時より伝わる祖師の作との由緒を明確にしたいという思惑もあるかもしれない。また「巧手之人」の制作ではないとされたことは、当時の造形上の評価がそれほど高くなかったことをうかがわせるが、ここでは祖師最澄の制作との由緒により大きな意義を見出している。この供養会について『叡岳要記』は円融天皇の行幸のもと、関白太政大臣藤原頼忠をはじめとする公卿、請僧百五十余人の多数の参列がなされたことを伝えている(『叡岳要記』上「中堂供養」)。この時に初めて最澄自刻が語られたと考えられているが(注8)、ここでの最澄自刻の等身像との宣言は大きな喧伝の効果をもたらしただろう。それを示すかのように「最澄自刻」が諸史料に見いだせるようになる。まず早く永観2年(984)成立の源為憲の『三宝絵詞』下「比叡懺法」(『群書類従』釈家部)

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