鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―255―(『類聚三代格』巻二)として鎮護国家のためとしている。史料の性質の違いもあろう「像法転時」における根本中堂像信仰と造像まで入ると答えている。弘仁11年(820)仁忠著の奥書を持つ本書は、成立年代は降るものと考えられているが、像法転時の「転」を「遷」とし、像法から末法と解釈されていることは、当時が像法転時と解釈され、救済者としての薬師如来が求められたことを示していると思われる。末法をまさに迎えようとしていた当時を像法転時と解釈することは自然だったのではないだろうか。したがって、根本中堂像についてもそのような「像法転時」を迎えるなかでの信仰が想定される。なお、造像当初から像法転時の救済者として根本中堂像が語られていたわけではない。例えば仁和2年(886)7月27日の太政官符「応置延暦寺西塔院釈迦堂五僧事」には「検旧記。故祖師贈法印大和尚位最澄創立此寺。鎮護国家。即造薬師仏像安東塔院。作釈迦仏像置西塔院。」が、おそらく像法転時の利益が強くうたわれはじめるのは、末法到来を間近に控えたころからではないだろうか。次に、「像法転時」における根本中堂像に対する信仰の様相をみていこう。『本朝続文粋』所収の「比叡山不断経縁記」は永承6年(1051)の年紀をもつ。この翌年に末法到来を控えた時期に、比叡山の僧は「我等於根本中堂医王之宝前。不断転読件経。因自乗作故」といい、「根本中堂医王」根本中堂像の前で、「件経」ここでは法華経の不断経の創始を宣言している。文中では山王権現に対しては護持を加えんことを願い、伝教聖霊に対しては証明を求めている。そしてこの不断経の開始は「全転一乗之輪。令伝三会之席。勿謂我等之新情。出自祖師之旧意而已。」といい、法華一乗の教えを弥勒の竜華三会に伝えんとするものであり(注9)、祖師すなわち最澄の旧意に基づくものとしている。つまり最澄の旧意による不断経を最澄自刻の薬師如来像の前で行っていることになる。このことは像の背後に祖師最澄の姿をみていることを示しているのではないだろうか。根本中堂像信仰による造像として、この時期十二神将像と日光・月光菩薩像が新たに加えられている。藤原道長は治安2年(1022)11月24日に根本中堂に十二神将像を安置供養している(『左経記』)。また、これと関連してか、長元元年(1028)3月7日には、藤原頼通が前年末に亡くなった父道長の仏具を延暦寺の経蔵に納めるため比叡山に登り、根本中堂で薬師法を修している(『左経記』)。これは阿弥陀浄土への引導者としての薬師信仰の側面を示しているのかもしれない。そして頼通自身もまた根本中堂に日光・月光菩薩像を新たに安置している。その年次について、『山門堂舎記』

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