―256―『天台座主記』は永承7年12月23日の開眼供養としている。一方『叡岳要記』は永承3年と記しているから、永承3年発願、永承7年供養とみることもできよう。頼通は翌天喜元年(1053)には平等院に阿弥陀堂を建立して、阿弥陀浄土に擬した空間をつくった(『扶桑略記』康平4年(1061)10月25日条)。日光月光菩薩像を安置したことは、阿弥陀浄土への引導者としての薬師如来に救いを求めた上で、自ら平等院内には『叡岳要記』には次のように伝えられる。阿弥陀浄土に擬した空間をつくりだしたといえるだろう。また現存作例に目を戻せば、京都・法界寺薬師如来立像は根本中堂像への信仰を考える上で非常に重要な意味を持つ。法界寺は、藤原資業が永承6年(1051)に出家して日野に営んでいた別業を寺院としたのが始まりとされる(『日野一流系図』)。その形姿は腹の辺で衣をV字に打ち合わせ、その印相は右手は胸の辺りで施無畏印とし、左手は掌を上に向けて薬壺を載せ、肘を曲げて前に突き出すようにしている。近年、津田徹英氏が紹介した史料、『四帖秘決』(『続天台宗全書』)によって根本中堂像の具体的な姿が明らかとなったが(注10)、そこに記された根本中堂像の印相とくらべて法界寺像は、右手の第一・三指を捻じない点で異なるが、左肘を曲げ左手を前に突き出すことは共通している。像の様式を見ても、永承6年の制作としては古様に造られていることからすれば、根本中堂像を意識しての制作であろうことは十分想定される。またその構造においても特殊な点が報告されている(注11)。なかでも肉身部と衣部を襟に沿って別材で矧いでいる点や、現在は近世の像に替わっているものの、像内に胎内仏を納めている点は特徴的である。ところで法界寺は、その草創について藤原宗忠の日記『中右記』寛治6年(1092)9月2日条は次のように伝えている。(略)件日野是故伊與三位入道所建立道場也、伝教大師自作給薬師仏安置其中、是一家之大宝也、(略)これによれば、道場に一族伝来の最澄自作の薬師如来像を安置したのが始まりという。この法界寺像における最澄の薬師如来像についての由緒は諸書に見出せる。例えば日野薬師事伝教大師自造三寸像。太政大臣房前孫子左大臣内麿。〔真楯大納言子也。北家。〕自慈覚大師御手奉伝之。為本尊相続及数代。資業三品之時像大仏像。奉納御身畢。
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