―257―建寺号法界寺。件資業舎兄広業申人相論之及奏聞。任道理。資業可伝之由被宣下〔云々〕。〔〕内割注ここでは、日野薬師事すなわち法界寺像について、藤原内麻呂の代より伝わった最澄自作の三寸像を法界寺の建立に際して、仏身に籠めたという。これは本体に胎内仏を納めていることにも通じる。この伝承の他にも、『尊卑分脈』の「家宗卿」の条(式部卿大納言真楯子右大臣内麿孫)には、法界寺の本尊は「七寸金銅薬師如来像一体」であり、それは最澄が異域より請来した「生身霊像」であるともしている(注12)。いずれにせよ法界寺像が最澄の薬師如来像と密接に関係して造られたことは間違いなく、少なくとも、『中右記』にあるように、11世紀後半には既に最澄自作の薬師如来像の伝承とともに法界寺像が語られていた。この法界寺像は永承6年に造立されたとみられる(注13)。これは入末法を翌年に控えた年である。そして、ここでも最澄自作の薬師如来像が関わってきていることは、像法転時における救済を求めての造像と考えられよう。また、「像法転時」の根本中堂像信仰を表すものとして実相院像がある。これは『阿娑縛抄』によれば後朱雀院の御願によるもので、座主明快の沙汰により「中堂本仏」を写したという。『天台座主記』によれば、康平6年(1063)の供養で制作はその一年前であるといい、『扶桑略記』では堂内に「金色半丈六薬師如来。同等身如意輪観世音菩薩。同文殊師利菩薩像各一躯」を安置したと伝える。金色半丈六ということは厳密な写しでなかったことを示しているが、康平6年は、すでに末法に入っているとはいえ、像法から末法への転時における根本薬師に対する信仰がその模像の制作の動機となったと考えることができよう。おわりに以上のように末法に入ると考えられた永承7年を前後として、「像法転時」に根本中堂像に対する信仰が高まった様子をみることができた。薬師如来に像法転時の救済を求める側面があったとすれば、その信仰の対象に根本中堂像が選ばれたのはなぜだろうか。良源の天元3年の再興供養願文に戻れば、根本中堂像が最澄自刻の像であり等身像であるとされていた。ここでの等身像とは近年の奥健夫氏の論をふまえれば、最澄と等身の像ということになる。ここから根本中堂像に最澄を重ねてイメージされていたことが想定される。長岡龍作氏の指摘にあるように、平安初期の薬師如来像が現実の僧を想起されるような姿に表現されていたことも、最澄と根本中堂像を重ね合
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