注久野健編『造像銘記集成』東京堂出版,1985年。 『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇 一』中央公論美術出版,1966年。■『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇 二』中央公論美術出版,1967年。宇野茂樹氏は称念寺像を延暦寺根本中堂像の模像の可能性を指摘している(宇野茂樹「延暦寺の根本薬師像」『近江路の彫像』雄山閣,1974年)。■永井信一「中国の薬師像」『仏教芸術』159,1985年。池江伊「韓国 防禦山薬師三尊像について―制作背景を中心に―」『美術史学』24東北大学美学美術史研究室,2004年。また、西尾正仁氏は当代の薬師信仰の特徴を極楽浄土への遣送仏としている(西尾正仁『薬師信仰―護国の仏から温泉の仏へ―』岩田書院,2000年)。■天台系薬師如来像については以下の論考がある。―258―わせる下地となっただろう(注14)。では最澄自刻の持つ意味とは何だろうか。最澄は末法思想を強く抱いていたことが知られる(注15)。それが後には真撰偽撰の説は分かれるものの『末法灯明記』の撰者とされることにも繋がった。石田一良氏は最澄の著作にたびたび見られる「像末」の語は「像法の終より末法の初にかけての時代」であるとし、最澄が『守護国界章』『顕戒論』『法華秀句』と著作を重ねる毎に像法より末法へと思想の重点を移し、『法華秀句』では法華一乗の教えを弘めようとする時代が「像季・末初」であると明確に述べていると指摘している(注16)。したがって「比叡山不断経縁記」にある最澄の旧意による法華経の不断経とはこのことを引き受けたものであり、根本中堂像の前で誓い最澄の証を求めていたのは、最澄の等身像に祖師の姿を重ねていたからだろう。一方、法界寺像は最澄自作の伝承を持つ胎内仏を納めるものの鞘仏たる本体は像高88.5cmで、最澄の等身像ではない。また、根本中堂像の写しという、実相院像も半丈六像だった。ならば法界寺像は最澄自作像を納入することにより、実相院像は最澄自刻の根本中堂を写すという行為により、像法転時の救済を求めていることになる。つまり最澄自造であることは、末法思想を持つ最澄の思想を反映していることをも示し、そのことが像法転時における利益もたらす強い裏付けとなったのだろう。毛利久「元亀以前の延暦寺根本中堂と安置仏像」『日本仏像史』法蔵館,1980年(初出『国宝延暦寺根本中堂及重要文化財根本中堂廻廊修理工事報告書』1955年)。西川杏太郎「法界寺薬師如来像考」『日本彫刻史論叢』中央公論美術出版,2000年(初出『MUSEUM』162,1964年)。清水善三「十世紀彫刻の諸相――天台薬師像の一形式・長源寺薬師如来像を中心として」『平安彫刻史の研究』中央公論美術出版,1996年(初出『仏教芸術』101,1975年)。高木豊「天台宗の造型活動をめぐって」『仏教芸術』172,1987年。伊東史朗「祇園社旧本地観慶寺薬師如来立像について―覚助・長勢時代の研究―」『平安
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