鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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注平成17年から18年にかけて宇都宮美術館を中心に開催された「構造社―昭和初期彫刻の鬼才た―17―このような戦後彫刻の展開から言えば、手探りの状況で進められていたセメント彫刻の技法を確立し、素材が内包する豊かな可能性を引き出すことに力を注いだ「構造社」の先駆的な活動は見直される必要がある。本論では同会の実践の一部を紹介したに過ぎないが、彫刻資材としてのセメントの活用が本格化した戦時下の彫刻の動向については更なる調査研究が必要であろう。むすび帝展改組以後の彫刻界では彫刻を展覧する公募美術展が増加したが、『日本美術年鑑』の「昭和十四年度美術界概観」では特筆すべき彫刻展として構造社展が挙げられており(注21)、同会が彫刻界を代表する団体として注目されていたことがわかる。そうした評価は、官展との協調を図りながら従来の「彫刻の実際化」という主張を変えることなく多岐にわたる総合的な創作活動を展開したからであろう。特に、公園や広場の中心となるモニュメンタルな彫刻に対する継続的な取り組みは、現実の建設計画に携わった齋藤素厳の活動と相まって、社会との連帯感を強調する同会の在り方を強く印象づけるものであったし、他に先駆けたセメント彫刻の実践は従来の彫刻表現を広げると同時に、彫刻資材の確保が課題とされた戦時下の彫刻界全体に寄与する試みであった。前期の活動期間に比べ、戦局の広がる後期の展覧会活動は100点前後の作品を展覧していたものの、会員による大作は減少し、生彩を欠いた感があった。しかしながら、彫刻界を代表する公募美術団体の一つに位置した構造社展は、前述したように多くの若手作家の作品を集め、新しい傾向に対して寛容だったことから彼らの個性を引き出す土壌としての役割を担った。その点に自由な創作活動が困難な状況下においてもなお展覧会活動を続けた意義を見出すことができよう。本論では団体活動を中心として論を進めた関係上、構造社展の出品作については中心作家の一部を紹介するに留まった。それ以外の作品の個別的検証や作家研究に関する報告は今後の課題としたい。また、同会から分裂して興った新構造社などの同時代の団体についての研究も「構造社」研究の一環として、昭和戦前期彫刻に関する研究の基礎固めとして取り組む必要がある。以上の点を視野に入れながら更なる調査研究を続けたい。

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