―261―Pass〔図2〕は、赤いチョークで線をやわらかく引き、陰影は形の変わり目となる頬ウィンダム・ルイスの大規模な回顧展「The Bone Beneath the Pulp」が開かれた。ルイスの初期作品の多くが消失していること、その活動がパウンドらと展開したヴォーティシズムにおける理念や文学性の観点から注目されがちなことから、彼の美術作品に関して、とくに造形的質に関する言及はほとんどされてこなかった。その意味で、ルイスの初期から晩年にかけて50点以上の素描を公開した同展覧会は彼の美術作品を再考する絶好の機会となった。本研究もこの企画を足がかりに始動した(注1)。ルイスの芸術家としての経歴は、先述のスレード美術学校時代、1910年代のヴォーティシズム期、「テュロスと肖像画」展に代表される1920年代、非現実的な抽象を制作する1930年代以降の四つの時期に分類できる(注2)。1898年に彼がスレード美術学校へ入学した当時、素描を教えていたのはヘンリー・トンクスで、ヌードや石膏デッサン、ミケランジェロやラファエッロ、ルーカ・シニョレッリの模写などの授業が行われていた。ルイスは大英博物館の版画室で素描の練習を重ねた。1900年には素描の才能が認められて奨学金を授与されたにもかかわらず、そのわずか1年後に彼は素行不良で退学処分となってしまった。ルイスはそれから3年ほどロンドンに住み、大英博物館の関係者たちと交流をもち続けた。そのなかには、トーマス・スタージ・ムアやローレンス・ビニョンがおり、同館版画・素描部門の学芸員だったビニョンからは、東洋美術とその美学について学んだ。この頃のルイスは、自らが制作した特徴的なソネットの評判によって「詩人」として通っていた。その後、1908年にようやく「画家」として名前が知られるようになるまでの約4年間、彼はパリで過ごしている(注3)。コレージュ・ド・フランスのベルクソンの授業に参加したり、ショーペンハウアーやニーチェの哲学書や、フランスやロシアの19世紀文学などを読んだりしつつ、知的素養を育んだ。ときには、オランダやスペインやドイツにも出かけ、ゴヤやベラスケス、フランス・ハルスの作品を研究した。残念ながら、この間のルイスの絵画作品も、スレード美術学校時代の作品と同様、ほとんど残っていない。現存する初期の素描の貴重な作例としては、Alfred de PassとTwo Nudesが挙げられる。退学後に描かれた2つの素描には、いずれも主題や手法においてルイスのスレード美術学校の先輩、オーガスタス・ジョンの影響が垣間見られる〔図1〕。Alfred deや目の際、あごなどにうっすらと付されている程度で、紙面の明るさを生かしている。構成のうまさに限らず、頭部の量塊の捉え方に正確な描写力を認めることができる。かたや、Two Nudes〔図3〕にも形態の強調と省略を含めた単純化への関心がうかがえる。速いタッチで選ばれた線が引かれている。
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